6月-1
-長雨のうちにも夏が待たれる季節となりましたが-じめじめ、雨。
空気にも水分が含まれ、じっとりと肌に纏わりつく。
寒かったり暑かったり蒸したりして、着る服を悩んだりするそんな時期。
その日も鬱陶しい雲の厚い日だった。
「バルサン炊くから出て行って」
平日が休みの職に付いている母に、至極真面目な顔で蹴り出され、久々に日のある時間に外に出ていた。
コンクリートには濡れた後。そして俺の手には傘。
何もこんな時期に、殺虫剤を炊かなくてもいいんじゃないかと思う。
でもしょうがない。ちょっとアレな黒い虫の存在が、二日ほど前に確認されたからだ。
どっかの家から移ってきたんだわ、と憤慨していた母だから、自分の仕事が休みの今日を狙っていたのだろう。
きっとついでに大掃除だ。
「......」
さて、どこに行こうか。
いつもながら金のない俺は、ファミレスやカフェなんて縁がない。
どんよりと空を覆う雲にため息を一つ。
いつ降り出すかわからないこの天気に、公園で時間を潰すという選択肢はない。
それに今の俺は公園が嫌いだ。
......仕方が無い。
行き先の決まらずに彷徨っていた俺は、とうとう目的地を定めて歩き出した。
一駅分歩いた先にある、大学。
俺が、つい3月に卒業した場所だ。
図書館という行き先もあったが、俺はあの強制される静かさが嫌いだ。
でも人ごみも嫌いだから、ショッピングモールなんてのも無理。
我ながら、我がままだと思う。
ぷらぷらと歩いてたどり着いた時には、ぽつぽつと雨が降り出してきた。
周囲に傘の花が咲く。
俺も傘を差しながら、大学の正門をくぐった。
研究棟の間を抜け、4年間通い慣れた文学部のある棟に向かう。
今の時間、きっと空き教室の一つや二つあるだろう。
傘立てに傘を突っ込み、じゃれあう生徒の脇をすり抜けて、教室を覗いて歩いた。
お、ここでいいかな。
何人かちらほら寝ていたり、話していたりする人がいるが、この教室は人が少ない。
空いている机に腰を下ろすと、俺は早速うつ伏せになって目を閉じた。
寝るのは得意だ。今の俺にはそれしかすることがないから。
俺は目を閉じると、あっさり夢の中に旅立っていった。
懐かしいチャイムの音。
それを目覚まし代わりに起きた俺は、背伸びをして大きな欠伸をした。
未だ何人か残っているが、殆どは外に出ているらしい。
時計を見れば、昼の時間だ。
みんな学食に向かったんだろう。
幾人かが教室で広げる弁当のいい匂いに、俺の腹がきゅるっと鳴った。
お腹空いたな。
食べ物がないと思うと、更に腹が空く。
ひもじくて、俺は浅く息を吐きながら、またぽてっと机に横になった。
固形物じゃなくてもいい。......水でも飲んで気を紛らわすかな。
とりあえず教室を出ようと立ち上がると、不意に思い出されたことがあった。
「あ」
今日着ているのは、忌まわしき五月のあの日に来ていたジャケット。
そしてそのポケットには確か...。
じゃらりと小銭が出てくる。
118円。
今更兄に返す気もなく、またこのジャケットを羽織る機会がなかったから忘れていた。
これで構内にある自販機で何か買って......。
「......」
昨今の自動販売機事情では、缶ジュース一本120円が常識だ。
あと2円足りない。あっても一円玉は使えない。
外を見ると、まだ雨が降っていた。
それほど強くないが、大学を出てコンビニに買いに行く元気はない。
むしろコンビニには入りたくない。
今はあの店員を連想されるものには、近づきたくなかった。
コンビニしかり、美術館しかり、公園しかり。
食堂センターの傍にあった自販機には、確かパックジュースがあったはずだ。
そこは確か100円だったはず。
俺は、ふらふらとやる気なく歩き出した。
食堂センターまでは、雨避けの屋根のついた道がある。
人が多いそこを、人に抜かされながら歩いて、ようやく見つけた俺の食料を詰め込んだ自販機。
俺がそこから出せるのはワンコイン分だけ。
だから本格的に悩むことにする。
コーヒーにイチゴミルク。コーヒーミルク。オレンジジュース。烏龍茶。緑茶。
俺がいたときにはなかった、ミルクセーキに惹かれる。
甘ったるいと、いやだな。そんなに甘くないかな。
よし、買ってみよう。
丁度俺の前に利用していた奴がいなくなり、さっそく金を入れてボタンを押す。
ガコンと、落ちてきたそのパックジュースを取ろうと、手を取り出し口に入れたとき、
「ああああーッ!!」
どでかい声に、俺はびくっと固まった。
「え、なに?」「だれよ」と周囲もざわつく。
ホント、いい迷惑だ。なんなんだよ。
パックを取り出しかけた、その体勢のまま、俺は顔を上げて声の方向を見た。
そこには、スキンヘッドの男がこっちに向かって走ってきていた。
......なんてデジャヴ。
俺じゃない。俺に向かってきてるんじゃない。
そう言い聞かせても、男の視線はしっかり俺に定まっていた。
目つき悪っ!
身体は勝手に動いていた。
一度掴んだパックを手放し、手を引き抜くとぎくしゃくとその場を逃げ出す。
「待ちやがれッ」
怒声に含まれる殺気に、がくがく震えていた足が滑らかに動き出した。
雨なんか関係ないから、道路に出てしまおうと踏み出した足。
「ッ」
ジャケットが背後から引っ張られ、足は地面につくことなく、俺は引き倒れされていた。
「逃げてんじゃねえよ、あ?」
殺されたいか、と口外に含むような強い口調。
スキンヘッドの男は真上から俺を睨みつけている。
耳にはピアスがじゃらりとついて、よくよく見れば唇にも一つついている。
こいつ、ここにいるということは学生なのか。
ヤクザじゃないのか。......俺は年下に脅されているのか。
身を縮めるようにして固まってしまう。
相手を見たまま微動だに出来ない。
そんな俺に、あからさまにチッと舌打ちをした。
「びくびくしてんじゃねえよ。ただちょっと話がだな......」
ガコンッ。
男の言葉は、鈍い音と共に途切れた。
「ッ~......」
頭を抱えてしゃがみ込む。
え、え?
おろおろと見上げると、男の背後に茶髪のベリーショートな女が立っていた。
ドクロのついたTシャツが眩しい、ロックな格好の子である。
「詫びる相手を、なに引き倒してんのさ」
ふん、と鼻を鳴らす女は、手にしていた灰皿スタンドを地面に置いた。
「の、脳細胞!俺の脳細胞が今お前に殺された!」
「うっさい。あんたの凶行を止めるために天に召されたんだから、本望でしょ~?」
後頭部を押さえて立ち上がった男に、女はじろりと見上げて軽くいなしてしまう。
小さい割りに、強気な女だ。
俺は未だに地面に寝そべったまま、ぽかんとやり取りを見ている。
と、顔の脇に白い手が差し出された。
「驚かせちゃって、ごめんね。立てる?」
手を辿って見上げると、そこには黒髪の女。
こちらも茶髪と同じぐらい、短い髪。
白いワンピースが華奢な印象を与えている。
その格好なら、もっと髪が長い方が似合うんじゃねえのか、なんてぼんやりと考えながら頷いた。
情けなく思いながら、女の手を握って立たせてもらう。
「ちょっとだけ、私たちに時間もらえないかな?」
ね?と上目遣いに見つめられ、女に耐性のない俺は、ぎぎぎと音がしそうなほどゆっくりと頷いた。