3月-9

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 じんわりとした幸福感が落ち着いた後、和臣は俺を離した。
 窓の外からはチュンチュンと鳥の鳴き声がする。
「もしもし、俺です」
 電話を掛け出した和臣から離れてカーテンを開けると、うっすら空が白み始めていた。
 ......なんて長い一日。
 普通に終わるはずだった一日は、まだこうして続いてる。
 太陽が見えないかと外を覗いていると、違うものが見えた。
「はい。話、終わったんで迎えに来てください」
 話の内容から、和臣は兄に電話をしているのだと察する。
 それを聞きながら、俺はそれから視線が外せなかった。
「センセ迎えに来てくれるって。......ともあきさん?」
 窓にくっ付いたままの俺に、訝しがった和臣が近づいてくる。
「いる」
「え?!」
 俺は、俺の息で白くなった窓を手で拭いて、指差した。
 マンションの前の道路に、見たことのある自動車が止まっている。
 それは、休みの日にしか使われない俺の家の車だ。
 兄の姿は見えないが、間違いない。
「もう着いてるって、言わなかったんだけど」
 和臣は小さく呟いた。
「俺、行く」
 待たせてるなら、行かないと。
 そう思って自動車から視線を外すと、和臣の強い眼差しとぶつかった。
「送る」
「......ん」
 2人で急いで外に出る。
 エレベーターに乗り込んで、1階を目指した。
 ふわっと来る浮遊感を感じつつ、俺の頭はぐらぐら揺れる。
 いや、揺れているのは脳だ。
 心が落ち着かないから、揺れているような気がするのだ。
「ともあきさん」
 じっと俯いて着くのを待っていると、和臣が俺を呼んだ。
 ぎゅっとあったかい手に握られて、俺は顔を上げる。
 和臣が優しい眼差しで俺を見ていた。
 そばにいるから、大丈夫だよって言われてる気がする。
 そのまま見つめ合って、顔を寄せた。
 さっきみたいに優しく優しく、唇を重ねる。
 最後にまた浮遊感。
 ドアが開くのと同時に、ゆっくりと離れた。
 手は、握ったまんま、足を踏み出して、マンションを出る。
 道路の端に寄せて止まった自動車に、寄りかかるようにして。
 昭宏が立っていた。
 姿を確認した途端に、一度は落ち着いた俺の心がドキドキと急に暴れ出す。
 いつもの黒のロングコートに、オールバックに上げていない髪。
 眼光は鋭いが、表情からは感情が読み取れなかった。
 兄は、俺たちに気付くと咥えていたタバコを一度だけ大きく吸い、煙を吐き出す。
 そして手にしていた携帯灰皿に押し込んだ。
 動作は、憎らしいぐらいゆっくりしてる。
 俺は緊張からぎゅっと強く、和臣の手を握った。
 すると同じぐらい強く握り返されて、少しだけ余裕が出た。
 手を握り合ったまま、昭宏に歩み寄る。
 途中で、兄が俺たちに向かって歩いてきた。
 こちらが足を止めても、昭宏は止まらない。
 じっと兄が見ている先は......俺だ。
 和臣は、自分が昭宏の視界に入っていないことに気付いたんだろう。
「センセ」
 わざと俺の前に立ちふさがった。
「どけ」
 昭宏は静かに言い放って、和臣の肩を押す。
 その力が強かったのか、和臣がわずか半歩だけ脇に押しのけられた途端に、顔に焼け付くような痛みが走った。
 え、あ......?
 バキ、とも取れない鈍い音。
 ずさっと手の平にコンクリートの冷たさを感じて、俺は昭宏に殴られて吹っ飛んだことを知った。
 いった......。
 後からじわっと痛みが来る。
 砂の付いた手で、頬を押さえた。
「何殴ってん......ッ」
 和臣が兄に怒鳴ったようだった。
 だけど、その怒鳴り声も途中で途切れる。
 それを聞いて、俺は慌てて上半身を起こした。
 見れば少し離れたところで、和臣が腹を押さえてうずくまっていた。
 アイツも、殴られたのか。
 苦しげに寄せられた眉根を見て、俺は和臣に近づこうと膝を立てたところで、頭部に痛みが走った。
「智昭。母さんに心配をかけるな」
「い......ッ」
 ぐいっと髪を掴んで引っ張られた。
 ......もちろん相手は、昭宏だ。
 和臣が驚いたように兄と俺を見た。
 いてえって!!
 髪を掴む昭宏の手に爪を立てるが、そんな反撃はこの悪魔にとって無意味だ。
「ともあきさんッ!!」
「大声出すな。近所迷惑だろうが。......もっとも俺は関係ない話だがな。お前が同性愛者で、肩身狭くなって追い出されようが」
 俺の髪を掴んだまま、鼻で笑う昭宏。
 和臣がはっと息を飲んだのがわかった。
 ぐいっと、髪を掴まれたまま歩かされる。
 前には、昭宏が乗ってきた車。
 このまま車に押し込まれて、連れ戻されて終わり?
 ......冗談じゃねえ。
「昭宏、話聞いて」
 小さい声で、俺は兄に訴える。
 ちゃんと、聞いてもらわないと駄目だ。今ここで。
「昭宏......!」
 頭部に更に痛みが走っても、俺は身体を捩って無理やりにでも、昭宏の手から逃れようと暴れた。
 ぶちぶちっと、嫌な音がする。
 髪が抜けたのかもしれない。
 痛いけど、でもここで引けない。
 足を蹴ったりしてどうにか向き合おうとしてると、和臣が走り寄ってきた。
「センセやめろよ!」
「黙れ和臣。俺の弟に手を出しやがって。ふざけんなよ」
 低く腹の底に響くような、声。
 やっぱり怒ってる。わかってるんだ。駄目な恋だってことは。
 だけど。
 聞いて欲しい。
「昭宏、俺和臣が好きだ。あいし......ッ」
 俺の訴えは、ゴッという鈍い音にかき消された。
 音源は、俺の鼻。
 近づいた車のドア枠に、思い切り兄に押し当てられたのだ。
 じわっと、鼻から熱いものが伝う。
「お前も黙れ腐れホモ。気持ちわりい」
 憎々しげに、兄が吐き捨てる。
 きゅっと胸が痛み、俺はうっかり涙腺が緩みかけた。
「やめろって言ってんだろうがッ!」
 和臣が悲痛な声を上げる。
 昭宏にタックルして俺から引き剥がそうとするが、逆にあしらわれて、また腹に一撃を食らう。
 だが、和臣は諦めなかった。
 けして昭宏に対して暴力を使わずに、俺から引き剥がそうとする。
「邪魔すんなボケが!」
 和臣を殴り飛ばしてわき腹を蹴った兄。
 俺は、髪を掴んだ昭宏の手をそっと握る。
「わかってもらえな」
 わかってもらえなくてもいい。そう告げたい言葉は、またゴツっと車に顔をぶつけられて止まる。
 鼻、潰れたかな。
 だらだら窓が赤く染まるのを見て、俺はぼんやり思った。
「ともあき、さ......」
 和臣の、力のない声。
 顔を見たいけど、押し付けられたままで振り返ることが出来ない。
「それ以上近づくんじゃねえ。もっとコイツの顔、潰されたいか」
 兄が、冷徹に言い放つ。
「てめえ自分の弟に......!」
「かずおみ」
 血を飲んでざらつく、けど精一杯優しい声で、俺は恋人を呼んだ。
 俺は、大丈夫だから。
 お前はそこで、待ってろ。
 和臣の姿を確認することはできない。
 だけど俺が名前を呼んだことで、和臣は動きを止めたようだった。
 ......へへ、俺の恋人、俺のことわかってくれるんだぜ?いいだろう。
 内心誇らしげにそう思う。
「別れるだろう、和臣」
 昭宏は、ゆっくりと言い放った。
 俺は、まだ頭部を掴まれたままだ。
「..................嫌だ」
 ゴツ。
 今度は、顔と言うより額に痛みが走る。
 そのままぐりぐりとガラスに押し付けられた。
 痛い。顔全部、痛い。
 泣き喚きそうになりながらも、俺は耐える。


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