9月リクエスト-16
静まり返った室内。
両親は既に眠りの中だ。
俺はリビングで、何をやっている。
「くそっ」
悪態をついても、飛び出していった弟は戻ってこない。
あいつをあそこまで怒らせたのは、俺の失態だ。
自分の怒りのせいで、智昭を傷つけた。
それもこれも......。
俺は目の前の散らばった紙くずを見て、頬を引きつらせる。
半分まで組み合わせてセロハンテープで貼り付けて、ようやくもとの形を見せた紙片。
「あああ!」
高橋、の文字を見た瞬間に、俺の手は勝手に紙をテーブルから弾いていた。
折角並べて、どこをどのように組み合わせればいいか置いておいた紙は床に散らばった。
「......くそ」
やってられるか。そういって寝てしまえばいいのに。
深呼吸をして紙片を集める。
そしてまた、俺は組み合わせ始めた。
会社で妙な噂が立っていることに気付いたのは、社内勤務の女性が俺を呼び止めたからだ。
「え?」
「藤沢さん、弟いるんだってね。似てるの?」
にこにこと話しかけてくる女性。確か、フロント業務の女性だ。名は知らない。
「......どこでそれを?」
俺は内心ひやりとしながら、質問には答えず聞き返す。
「えっと、みんなで話していたときに出た話題だったから、誰が言い出したかはわからないの。誰だったかしら......」
「そうですか......。弟とは似てませんよ。では」
にこやかな笑顔を貼り付けて、俺はその女性の脇を通り過ぎた。
見惚れたように、後姿を見送られていることにも気づかない。
弟のことは、今まで会社では一切話したことはなかった。
働きたいといったニートのために、俺がしょうがなく用意してやったのが、俺の会社の国内倉庫での仕分け。
派遣の人間だけでやらせるからいいというのを、多少ごり押しはしたが、もしやそれが不味かったのか。
女性に尋ねられた以外にも、何人かに兄弟に関しての質問を受けた。
秘密にしておけといったのに、あのやろうばらしやがったな。
同期に入社した気弱そうな総務の男を思い出す。
変わったことをすれば、騒ぎ立てる人間がいる。
弱い犬ほど良く吼える、というあれだ。
「藤沢。お前、弟を倉庫で働かせてるそうじゃないか。聞いたぞ」
「......たまたま、人手が足りないと聞いたからです。自宅に暇人がいたんで」
喫煙所で会った、俺とはソリの合わない男。
その男がにやにや笑って嬉々として話し出した。
てめえが無能の癖して、俺に難癖をつけてくる。
高橋を心酔しているせいか、やつとぶつかりやすい俺が、気に食わないんだろう。
確か俺よりも年上だが、役職つきではない。
それもまた、きっと男の神経に障るのだ。
「少しぐらい成績がいいからって、そういろいろやってると、痛くもない腹を探られるぞ。会社を私物化してるってな」
探りたいのはてめえだろうが。
「......肝に銘じておきます。では」
いつまでも一緒にタバコを吸いたい相手ではない。
まだ長いタバコを灰皿に押し付けて消し、俺はその場を後にした。
今考えてみれば、自分の会社で働かせるなんてことをさせたのは、軽率だったんだろう。
単に手に職を与えてやろう、俺の目の届くところにおいておこうという思考でいたのが間違いだった。
人がいないことを確認して、俺はちっと舌打ちをした。
会社でそんなことがあったから、俺は過敏になっていたのだ。
でなければ、あんなに楽しそうにしていた弟から名刺を取り上げて破るなんて、しなかった。
高橋が、あの男が俺の弟だと気付いて、嫌がらせのつもりで渡したのだなんて、そう簡単に思いはしなかった。
「......」
目の前には、セロハンテープで貼り合わされたいびつな名刺。
印刷された文字も、ぼろぼろで読みにくい。
完全に元に戻ったとは言いにくいが、それでも名刺はここにある。
が、あの馬鹿は出たまま戻ってこない。
かちかちと時計が時間を刻む音だけが、リビングに響くのを聞いていた。
朝になって起きてきた母は、リビングにいる俺を見て驚いたようだった。
「お兄ちゃんおはよう」
「......はよ」
「元気ないわねえ。トモくんと喧嘩でもした?......あら、したの。駄目じゃない」
何も答えていないのに、俺の表情を見ただけで母はそう言って嗜めようとする。
「わかってるよ」
「そう。トモくんが起きたらさっさと謝りなさいね」
智昭が外出したまま戻ってこないというのは気づかない母。
なのに、明らかに俺が悪いということは気付いている。
母は休日も普通に仕事だ。
普段なら出てくるだろう時間に出てこない智昭のことを訝しがりながらも、俺と喧嘩したせいと早とちりしたまま仕事に出て行った。
俺は、歪んだ名刺を目の前に智昭の帰りを待つ。
と、普段この辺りでは聞きなれないバイクの音がした。
咄嗟にリビングを出て、玄関に立つ。
外からわずかに聞こえた声は、智昭のものだ。
黙って様子を伺っていると、玄関のドアが開いた。
開けたのは智昭だ。俺と目が合うと、そのままドアを閉める。
ほう......。そんなに俺が怖いか。
思わず腕を組んで仁王立ちしてしまう。
しばらく待っていると、やがておずおずと弟が入ってきた。
彷徨う視線が、ゆっくりと俺を捕らえる。
黒い大きな瞳は怯えていた。
「ごめんなさい」
震える声で、智昭が謝った。
悪いのはお前じゃない。俺だ。
そう思ったけど、声が出なかった。
床に膝をついて、同じ視線までしゃがむ。
「お帰り」
......ごめんな。
そういう気持ちを込めて、俺は弟を抱きしめた。