一陣-1



 通された会議室の中で、俺は男性が記載する手元をじっと眺めていた。
 俺が務める会社ではなかなか取引ができない大企業の部長は、時折老眼鏡をずらして契約書の内容を確認しつつ、必要な部分に社印と丸印が押されていく。
 十分に打ち合わせを繰り返したので問題はないはずだが、それでも部長の手が止まるたびに俺は手の汗が増える。
 何度も膝に手のひらを擦りつけて、意識的に息を吐いた。
「.........はいっと、これでいいかい」
「確認します。失礼します」
 捺印をもらったばかりの契約書を手に取り、内容を確認していく。
 二通ある契約書はどちらもきっちりと署名がなされ、問題はないようだった。
 うぉお......。
 内心飛び回って喜びながら、表面上は素知らぬ顔で俺は二回きっちり確認すると、俺は頭を下げた。
「はい。問題ありません。ありがとうございます」
 俺が立ち上がって頭を下げると、部長も釣られたように立ち上がって頭をかいた。
「いやいや、こちらこそこれからよろしく」
 そんなことを言われながら手を差し出されたら握り返すしかないじゃないか。
 手が震えそうになるのを必死で堪えながら、俺は部長の手を握り返した。
「はい。ご希望に添えるように尽力いたします」
 きっぱり告げた俺に、部長はにっこりと微笑んでくれた。
 それから俺は、今後の簡単なスケジュール調整の打ち合わせをした後に部長と別れて受付まで戻ると、そこにいた受付嬢に無駄な笑顔を振りまきながらその会社を後にした。
「家に付くまでが遠足......家に付くまでが遠足......」
 この言葉は本当にいい。帰り着くまでは寄り道をしたり、違うことに気を取られるのは危ないぞという言葉だ。
 俺も至極淡々と電車に乗り込み、会社最寄りの駅で降りる。
 よく知った街の匂いに、なんだか少し身体の力が抜けた。
 やや早足で駆け抜けていくと、駅のそばにあったショッピングモールのショウウィンドウに鏡のように俺が映る。
 すっごい笑顔。あまりにもあけっぴろげで、ちょっと自分でも引くぐらいだ。
 慌てて顔からだらしない笑みを消すと、ずいぶんと雰囲気が引き締まって見える。なかなかの美形だと、自分では思ってる。
 寝癖で跳ねやすい柔らかい髪は、整髪剤でなでつけて後ろに流している。
 二重の気の強さが現れている釣り目気味の瞳とその強さを抑えるように緩やかにカーヴを描いた眉。
 肌荒れには縁がなかった頬はなだらかで、ツンと高い鼻が俺の少し過剰な気位の高さを表している。
 薄い唇からは形の良い小さな歯が覗く。
 細い顎とそれぞれのパーツが組み合わさると俺の、三科幸彦の顔だった。
 別にナルシストというほどではないが、それでも標準そこそこの顔立ちは嫌いじゃない。
 嫌いじゃなければ、ある程度手入れしてよく見せようとも思うわけだ。営業であれば外見も重要な仕事のアイテムである。
 しばらく自分とにらめっこしていたが、口の端が上がりそうになるのを見てたまらず走りだした。
 すれ違う何人かが走る俺を見て振り返るが、この場合多少大目に見て欲しい。
 額に汗が滲むぐらいまで走ると、俺の会社が見えてきた。
 下町に本社を構える従業員数15人足らずの、精密機械部品の製造、組み立てを主とする弱小企業だ。工場が併設されており、お世辞にも近代的とは言えない外観を構える。
 昨今は安さを武器にする海外企業に押され気味で、業績もいいとは言えなかった。
 だから今回の契約は会社にとっても、そして俺にとってもどうしても欲しいものだったのだ。
「戻りました!」
 走ったせいで息が弾む。
 ちくしょう、前はこのぐらいの運動で息切れなんてしなかったのに。
 輝かしい10代の頃が一瞬脳裏をかすめるが、今はそれどころじゃなかった。
 工場の面積が大きいため、余計みすぼらしく見える事務所に飛び込む。
 一フロアに社長から平社員まで詰まっている俺の職場には、ほとんどが工場に出ているのか人は少なかった。
 残っているのは総務の女性社員が二人だけで、俺の顔を見ると椅子を鳴らして立ち上がってきた。
 闊達に従業員たちを叱咤する、豪快な四〇代のおばちゃん......麗しき女性陣だ。
「どうだった?」
「無事取って来ました五千万!」
 じゃーんと言わんばかりに、俺はクリアファイルに入れてあった契約書をカバンから取り出す。途端に二人から拍手を受けた。
「やったじゃない三科くん!」
「ついこの間入ってきたと思ったら、こんな契約取ってくるまでに成長してねえ......」
 二人に褒められて俺もやっと頬が緩んだ。ちなみにこの二人は、高校生のお子さんがいる。おかげで扱いが息子並みだ。
「やだな、俺だってもう二八歳ですよ。こんぐらいやれますって。......もっと褒めてください」
 嬉しくてそうねだったら、頭を撫でられた。......ちょっと褒められ方が違う。
「何するんですか、せっかく固めたのに!」
 崩れた髪型に俺が声を上げると、おばちゃんたちは二人揃って笑った。
「あんたは髪を上げないほうがいいよ」
「そうそう、ぴっしりしてるとなんかどっかの大企業の営業さんみたいだもん。下ろしたほうが似合うって」
 拗ねたほうがいいのか素直に喜んだほうがいいのか悩んでいると、チャイムの音が響いた。作業精度を上げるための午後にある一五分の休憩時間だ。
 そのままおばちゃんたちにもみくちゃにされていると、汗を吹きながら技術部が事務所に戻ってきた。
 古い工場はクーラーなんてものもなくて、機械がフル稼働すると中は暑い。この時間は事務所に戻って涼しむのが常だった。
 作業員はいつもとは違い、俺を見つけるとわらわらと近寄ってきた。
「お、帰ってきたのか」
「はい。ちゃんと契約出来ましたよ」
「へえ。やるじゃねえか」
 今度はおじさんたちに囲まれる。汗臭い。
 俺と同じ年のやつや年下の社員も少数ながらいるが、そいつらは端で冷えたお茶を飲みながら寛いでいる。
 目が合うとお疲れ、と軽く微笑まれた。それに同じように笑みを浮かべて返しているとドンッと衝撃を受けた。
「大卒で取った営業様だもんな、こんぐらいやれないとなあ」
 工場長がにやにや笑いながら、俺の背中をばしばしと叩いていた。
 その力が強くて俺は危うく前に倒れそうになってしまう。
「いた、痛いって! やめてくださいよ。暴力反対!」
「暴力じゃねえよ。愛のムチだ」
 はっはっは、と大きく笑った工場長に、肩を強く掴まれて揺さぶられた。
 技術部員が多いこの会社では、営業の立場はあまり高くない。というのも、営業らしい営業は俺一人だからだ。
 経営者である社長も俺の上司も、元は工場で一からノウハウを勉強して営業として外に出るようになった人だが、俺は大学卒業後に営業として就職した立場のため、工場での作業はあまり経験がない。
 もちろん最初に実作業も体験したし、その知識は技術部員とも差がないと自負しているが、それでも一つも契約がとれなければタダ飯食らいのお荷物だ。
 就職した当初は取引のある企業とのやり取りが主で、俺個人で取ってくる仕事はなかった。また結構俺が我が強い性格のせいで散々他の社員とも衝突し、言い負けて悔しさに涙を飲んだ日もある。
 このまま負けたままでいるものかという気概と、上司の支えがあったからこそ、辞めることなくここまで来れた。
 やがて徐々に小口契約も取れるようになり、今日の大口契約を取ってくるまでになった。
 そろそろ扱いが一人前になってもいいと思うんだ。......だが現実は無情で、相変わらずからかわれるのは変わらない。
「何騒いでんだ?」
 事務所のドアが開き、低い声にみんな一瞬動きが止まった。
 振り返ればそこにいたのは社長と俺の上司だった。
 にこやかな笑顔が特徴の社長は六三歳と高齢だが、まだまだ現役で働いている。
 大学生の二人娘をもつ父親でもある俺の上司である営業部長と一緒に、ベトナムでの新しい工場立ち上げによる視察から帰ってきたのだ。
 社長は笑っていると温和に見えるが、これが怒ると怖い。
 今も帰ってきたのが社長だとわかると、俺を囲んでいた面々が騒ぎで怒られるのを嫌がって散っていく。
「お帰りなさい」
 おばちゃんがにっこりと微笑みながら、帰ってきた二人の労をねぎらうためにお茶を入れ始めた。
 俺はすぐに社長の元に向かった。今日の戦利品を見せるためだ。
 狭い事務所だから、社長室なんてものはない。上着を脱いで椅子に腰掛ける社長の前に立った。
「お疲れ様です! ホーチミンどうでした? 今の時期だと結構過ごしやすかったんじゃないですか?」
「三科か、まあまあだな。それよりお前の方はどうだったんだ?」
「はい。問題なく契約書を交わしてきました」
 差し出した契約書を受け取ると、社長は自分の席に座り老眼鏡を取り出して、書類に目を通し始めた。


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