一陣-2

Prev

Next



 最後まできっちりと視線を巡らすと、パタリと書類を閉じて「金庫に入れとけ」とお茶を持ってきた事務員に契約書を渡す。
 それから俺をじっと見つめた。
「よくやったな。一人で任せるのは少し不安だったが、これだけやれれば十分だ。また頑張ってくれよ」
「は......はい!」
 この会社に入って六年。社長から褒められたことなど殆ど無い。笑顔でそう言われると、ぐっと目頭が熱くなった。
 ここまで頑張れて、本当に良かった。
 じわじわと広がる感動を胸に自分の席に戻ってくると、隣の席に腰を下ろした部長がにやりと唇を歪める。
「泣いてんのか三科」
「泣いてないですよっ」
  からかうように図星をさされて反射的に怒鳴ると、この人にも俺は頭をがしがしとなでられた。
 事務所のメンバーだけだと、一番年若い俺は孫か子供扱いだ。
 今だからわかるが、最初は本当に物知らずなガキだったからな、俺。
「まーこれからが忙しくなるんだ。今日は前祝いと行くか?」
「え、マジですか。ゴチになりまー......」
 手で飲みのジェスチャーをする部長の喜ばしいお誘いに、部下らしくたかろうと思ったところで、俺はぴたりと動きを止めた。
 嫌な予感を覚えつつ、ちらりと視線をカレンダーに向ける。
 ......駄目だ。
「すいません......俺も行きたいんですが、今日は無理なんでまた別の機会にでも」
「ああ? またか。お前忙しいんだな」
 肩をすくめた上司は残念そうに告げる。すると、話を聞いていた技術部員が何人か近寄ってきて話に混ざってきた。
「んじゃ俺らだけで飲みに行きましょう」
「そうそう! あ、俺居酒屋予約しておきます!」
「なんだ、お前らじゃ奢らねえからな。割り勘だ割り勘!」
「えー!」
 そんな騒ぎの間に休憩終了のチャイムが鳴った。どこぞで飲もうなんて話をしながら工場に戻っていく彼らに、俺もつい笑ってしまう。
 彼らは飲み会がなにより好きなのだ。最初はなかなか相容れなかったが、六年も一緒に仕事をしていれば親しくもなる。
「三科、ちょっとこい」
「はい?」
 楽しげな余韻を残しながら次の仕事の資料を用意していると、社長が改めて俺を呼んだ。
 呼ばれて向かうと、社長はパーテーションで区切られただけ応接室とは名ばかりの場所に入り、俺に座るように進めた。
「なんでしょう」
 居住まいを正しながら問いかけると、社長は持っていたファイルを俺に渡した。それは俺も普段良く見かけているもので、別段変わったものではない。
「ベトナムの工場の資料ですよね」
 日本の工場だけではなかなか生産性が上がらず、新しい工場を海外に設立することは前々から決まっている。
 撤退した日系企業の工場を安く買い取って、簡易なパーツは海外で生産し、難解な組み立ては日本で行うのだ。
 俺も何度か出張に同行して、英語でプレゼンテーションを行なっていたので、ある程度の詳細は理解している。
「技術部の若いやつを、何人か営業に回そうと思ってな」
「はあ」
「ベトナムの工場も、来年には稼働する。何人か技術部の奴らも現地指導に行かすが、お前も向こうで営業として頑張るつもりはないか」
「......え?」
 突然の申し出に、俺はうまく事情を飲み込めなかった。
「うちにはどの会社にも負けない精密機器を創っている自信がある。まあ今までこの工場だけでやってきたから取引相手は決まっていたが、海外にも工場を出すならこう、あれだ、あれ」
「グローバル化、でしょ社長」
「そう、それだ」
 パーテーションの向こう側からタバコを持った部長が入ってきて、言葉がでない社長に助け舟を出す。
 落ち着いた様子を見ると、上司はこの話を知っていたようだった。
「うちももう、国内だけじゃやっていけないからな、だから遅まきながらでも外に出る。お前は度胸もあるし、語学も達者だ。今回だって自分一人の力で大きな仕事を取って来た。だからベトナムでもその力を生かして仕事をして欲しいんだ」
 海外で仕事......。
 ぱちっと、瞬間的に脳内が大学時代に戻る。あの頃は、長期の休みがあれば飽きることなく、アジアの国々に出かけて日本にはない気候とその文化に魅了された。
 就職するときには、旅行コーディネーターも思考の中にはあった。だが結局選べない選択肢は捨て、小さいながらも国内で堅実に業績をあげていたこの会社に営業として入社したのだ。
 捨てた夢が一気に目の前に広がる。
「あっちは発展途上で、うまくすればうちがほとんどのシェアを握ることも出来るはずだからな」
「......俺が、そんな大役......」
「は、いつも強気でいるお前らしくないな三科。お前なら大丈夫だ」
 俺の隣に腰を下ろした部長に背中を叩かれる。力強く言い切る相手に、俺は引きつった笑みを浮かべた。
「まあすぐに決めろとは言わないが、考えておいてくれ」
 戸惑った様子の俺を見て、社長はそう締めくくった。
 戻っていいという言葉に背中を押されて、俺は衝撃を覚えながら自分の席に戻る。
 席に腰をおろした俺は、無言で拳をきつく握った。
 確かに英語も勉強したし、日常会話は問題ない。ビジネス英語だって他の人よりは自信がある。
 それでもすぐに行きますと返事が出来なかった、自分が悔しかった。



 定時に仕事を終え、俺は急いで職場を飛び出す。
 月に三回ほど定時で帰る日があるのだが、職場のみんなももう慣れたらしく特に詮索はされなかった。
 理解があるありがたい職場だ。
 混む電車に揺られ、それからバスに乗り込み郊外の自宅へ向かう。職場まで約片道1時間半だ。
 出来ればもう少し近い場所に住みたいのだが、それもできない事情がある。
 バスを降りると、そこはすでに喧騒とは無縁で明かりも少ない住宅街だ。早足でたどり着いた先は、特に特徴もない普通の二階建ての自宅。
 駐車場には両親の軽自動車とバンが一台ずつ止まり、二段ほどの段差を上がった門戸の中には、母が趣味で植えたガーデニングの花が咲いている。
 庭らしい庭は駐車場で潰れてなく、そこが唯一植木を楽しめる場所だ。
 家の中だって、一階にダイニングリビングとキッチン、それから両親の寝室とクローゼット。それから祖父の和室。
 二階には俺の部屋とバストイレ、それから結婚後出ていった姉の部屋があるだけの、平均的な建物だと思う。
 隣もそのさらに隣も似たような外装なので、きっと同じような間取りのはずだ。
「......ただいま」
 玄関を開けると、母がぱたぱたとスリッパの音を響かせて走ってきた。エプロンを身につけているところを見ると、夕食の準備だったのだろう。
「遅い!早くしなさい。伊津美はもう部屋に行ってるわよ」
「はいはい......」
 今日ばかりは元気に向かう気になれない。いつもより沈んだ様子の俺に、母は「具合が悪いの?」と額に手を当ててきた。
「平気だって、ちゃんと『お告げ』してくるから」
「そう? 終わったら夕食食べれるようにしておくから、しっかりね」
 その声に押されるように、階段を上がって自分の部屋に入る。
 六畳の、極普通の部屋だ。半畳程度のクローゼットが備え付けてあり、その中には私服やスーツが押し込まれているが、そこまで整頓好きでもないため、部屋にも衣類が散らばっている。
 親にはあんまり入られたくないけど、時々勝手に入られて掃除されていた。
 脱いだスーツの上着をベッドに放ると、俺は壁に視線を走らせる。時計は一九時五分前を指していた。
「っと、ぎりぎり......」
 急いで帰ってきたつもりだったが、タイムリミットが近いことを知って、俺は急いでクローゼットの中から桐の箱を取り出した。両手に乗るサイズであまり大きくなく、軽い。
 俺が生まれたときに作られた桐の箱は、月日の長さを物語るように味が出ている。床に腰を下ろすと箱の上蓋を開けた。中には綿が詰まっており、必要なものはすぐには見えない。
 扱いは丁寧にと言いくるめられているが、俺は躊躇なく柔らかい綿の一部をぽいっと投げると、中に入っていたものを鷲掴みにして引っ張り出す。
 それは、精巧に作られた鹿の置物だった。
 枝分かれしたツノとピンと伸び耳、毛並みや筋肉の盛り上がりがわかるほどのリアルな作りである。
 ツノから蹄まで真っ白で、ぱっちりと開いた黒目が印象的だった。
 鹿を軽く揺らすとコトコトと乾いた音がする。
 この鹿には腹の中に空洞があり、そこに乾燥した俺のへその緒が入っている、らしい。一度封をしたら開けられない構造になっているようで、俺は中身を確認したことはなかった。
 とりあえず桐の箱を床に置き、その上にそっと鹿を置く。そこはさすがに丁寧だ。
 なんたって、この鹿は『俺』なのだから。
 よし。
 なかなか入らないやる気を注入するように軽く頬を叩き、俺はその鹿を見つめながら座禅を組んで、臍の下あたりに力を込めた。所謂丹田という場所だ。
 身体の中の力が丹田を通り、また身体を巡っては中心に集まる。
 そんな想像をしていると、身体がぽかぽかと暖かくなってきた。
 だんだんと熱くなってきた身体に薄く口から息を吐く。
 単なる置物だったはずの鹿の瞳にかちっと生気が宿った瞬間、目の前の風景が歪んた。
 焦点を鹿に合わせているせいで、その揺らめきはしっかりと捉えることはできない。
 周辺の変化が進むと共に、鹿の姿が薄くなっていく。ちらちらと視線の端に光がちらついた。
 俺の部屋の蛍光灯は天井にしかなく、その光は別のものだと窺い知れる。
 その光が、灯籠の中で揺れる火だと気付く頃には、周囲の環境は一変していた。


Prev

Next

↑Top