三陣-6

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 簡易的に檜で作られた小さな社に鎮座した志那都比古のご神体は、手のひら大の琥珀だった。透明度の高い黄色の石に、ところどころ筆を走らせたような黒い線が沈殿している。磨き上げられたわけでもなくぼこぼことした琥珀は、真綿に包まれてそこに置かれた。
 俺はというと、その社が上座に置かれた部屋の中央で布に包まれたまま、ピィピィ鳴き声を上げていた。周囲には見目若い緋袴を身につけた巫女が四人も取り囲んで祝詞を唱えている。
 身体がじんわりと暖かく感じるのは、彼女たちが俺に生気を与えているからだろう。だが非効率なのか、もうすでに三人ほど倒れている。
 それでも構わずに俺に生気を送ってくれる彼女たちに申し訳なくていたたまれなかった。
 しのかは俺とは違う部屋に運ばれて、どうなったかわからない。包まれた布のお陰で身動き出来ない俺はただ鳴くだけだ。
『落ち着けってば。人化出来なきゃ、西埜風の居場所も聞けやしねえだろ』
 その声は俺の中ではなく社の中から聞こえ、俺はじろりと琥珀を睨んだ。相変わらず聞こえる声は俺のものだが、志那都比古は神体に戻っている。その方が俺の負担が少ないらしい。
 せめて一緒にいたいって思うぐらいいいじゃねえか。
 治療すると経親は言っていたが、あんな風に瘴気を吹き出すしのかをどうやって治療するのか。それに......。
 しのかが、西埜女の弟だったなんて知らなかった......。
『たまたま吹き飛んだ方向に気配があったのを俺様が察知して、近くに落ちるように仕向けたんだ。そうそう相性がいい巫覡が転がってるかよ。西埜風は元々西埜女の控えだ。西埜女に何かあったときには、代理を務めるはずだったんだ。男ってハンデを打ち消すために、名に俺様を表す『風』の文字を入れてんのもそのためだ』
 じゃあなんで、そんなしのかが瑞穂国境で退治屋なんてやってたんだよ。
 その問いには押し黙る志那都比古に、俺は威嚇を表す甲高い鳴き声を上げてやった。もう少し場所が近ければ角で社を突っついてやるのにと思ってじりじりと身動ぎする。
『馬鹿なこと考えんじゃねえよ幸彦。退治屋やってる理由は知らねえが、都にいない理由は知ってる。......瑞穂国の国政が三系統の皇族から成ってんのは知ってるか?』
 それぐらい知ってる。
 俺は堂々と言い返したが内心はひやりとする。その昔に、西埜女からそんな話を聞いた気もするが曖昧だ。
 基本的に俺は単に御使として言葉を伝えるだけで、それ以上でもそれ以下でもない。西埜女も俺には瑞穂国の内情を詳しく言わなかった。
『西埜女は藤原家の血筋の女を母親に持ってる。対して西埜風は別の皇族の女が母親だ。もう一系統はまあこの際置いといてだなァ。俺様は瑞穂の神だけあって、敬われる立場なわけだ。その神様の言葉を誰が聞き伝えるかってのはァ、人間にとっちゃ重要なわけよ。ちょーどうでもいいことだけどよ』
 ......なんとなく分かった。つまりしのかは、都にいると命を狙われたりするってことなんだ?
『西埜女もな。姉弟同士はちったぁ仲が良かったみてぇだが、他はそれじゃ困るんだと。西埜女はまだ藤原家の庇護が厚かったから良かったが、西埜風の母親は命の危険を感じて西埜風を連れて都落ちした。それなりの場所で隠居してたはずだがなァ......名も変えてるってことは、なんかあったんだろうよ』
 なんかってなんだよ!
『だから俺様は知らねぇって。つか関係ないじゃんお前には』
 あっさりと言い切られ、俺は言葉を詰まらせた。
 確かに俺が聞いても仕方が無いことなのかもしれないが、知りたい。
 うずうずと身を揺らすと、これみよがしなため息を吐かれた。
『俺様もよ、疲れてんのよ。だからさっさと神通力が回復したらおうちに帰んな。もう見送りしねえけど、お前ならちゃんと帰れっからよォ。あ、甥っ子は諦めな。ありゃあもうダメだ。んじゃおやすみ!』
 志那都比古? おい! 知春を諦めろってどういうことだよ?! ......聞いてんのかおい!!
 その後俺がいくら呼びかけても、志那都比古はうんともすんとも答えなかった。
 適当さにつくづく腹が立つ。
 俺はため息を付いて首を床に伏せる。視線の端でまた一人倒れこみ、女中がその巫女を連れ出していった。また別の一人が補充されて周囲と合わせて祝詞を唱え始める。
 正直言って、全然神通力が貯まってない。本当に効率が悪い。
 夢の中で交わるのが、こんなに効率がいい方法だとは思っても見なかった。
 ......しのか、本当に大丈夫なんだろうか。あの男、治療するって言ってたけど、今の話だとしのかは藤原家とは別の血筋ってことだ。
 そう思うと堪らなく不安になった。積極的に命を狙われなくても、今のしのかなら放置されただけで瘴気に包まれて衰弱死するだろう。
 そんなの嫌だ。
 俺は首を巡らせて胴を包んでる包みを見た。紐で結わえられているだけで特に何かされてる様子はない。
 俺を囲む可愛い巫女さんたちには申し訳ないが、これなら神通力で切って抜け出せそうだ。
 俺がタイミングを見計らっていると、閉じられていた豪華な絵に彩られた襖が開いた。祝詞が一度止まり、ややあって再開される。
 視線の端に入る紫色の着物には見覚えがある。
「ご機嫌伺いに参りました、御使殿」
 入ってきたのは藤原経親だった。知春は連れていない。
 男は俺の前に片膝を立てる形で座ると、手にしていた扇子を開いて口元を隠した。
 ああん......? こんな簀巻きにされて機嫌もくそもねーよ。
 俺は歯を見せて威嚇するが、男は肩をすくめただけだった。
「確か人になっていたと思いますが、今は姿を変えることはできないのですか?」
 丁寧な口調だが、経親はどこか慇懃無礼な態度だ。なんだか俺を見下しているような心情が透けて見える。
 俺が何も答えずにいると、なにやら思案顔で「ふむ。これも言い伝え通り」と呟いた。
「西埜風の仲間より、なにやら御使殿とやつは睦まじい仲の様子であったと伺いました。こちらにいらしていた間、御使殿の巫覡は西埜風であったことは相違ございませんか」
 ふげきって、巫子のことか。......まあ、そうだったんだろうな。俺はあいつから気をもらって生きてたし......。
 この男にそれを告げるのはなんとなく癪だが、俺はしぶしぶ頷いた。すると男は衝撃的なことを口にする。
「結論からいいましょう。西埜風は今大変危険な状態です。尋常ではない気力で抵抗しているようですが、自ら瘴気の元を胸に含んでしまい、浄化も進みません。瘴気で衰弱死するだけならともかく、下手をすれば物の怪になる」
 平然と落ち着いた様子で言い切った経親に、俺は小さく唸った。
 ふざけんな! 絶対助けろよ!!
 思わず俺はわずかな神通力を使い、紐ごと布を切り落として立ち上がる。周囲の巫女は室内に吹き荒れた風に驚いて悲鳴を上げるが、詰め寄る俺に経親は気後れすることもなく堂々としていた。
「西埜風を助けたいですか」
 当たり前だろ! あいつは俺の命の恩人なんだよ!
 返事をするように短く高く鳴いた俺は、まっすぐに経親を見つめた。男は俺の目を見返して目を細める。
 笑った、ようだった。
「人の手ではもはや浄化は不可能です。ですが、御使殿であれば西埜風を助けることができるでしょう。......時臣、うず煮をここに」
 口元を隠していた広げた扇子を閉じた男が手を打ち鳴らすと、襖を開けて入ってきた若く長身で体躯の良い男が、俺の前に細工の凝った小さな箱膳を運び入れた。
 その上には椀が一つ乗っていて湯気が立っている。
 中には米や白身魚、細か角切りにされたごぼうや人参らしいもの、海苔なんかも入っていて雑炊のようにも見えた。
 美味そうな匂いがするけど、これがどうしたんだ。
 鼻先を突き出して匂いを嗅ぐ俺に、経親が口を開いた。
「これは特殊な方法で煮炊きした、御使殿が豊葦原で初めて口にできる供物です。口にすれば力が足りずとも人となれます」
 え、これ俺食えんの? 人になるってどういうことだ?
 基本的に御使は豊葦原の食物は口に出来なかったはずだ。
 実際草も食べれなかったし、村で人参やらなんやら差し出されたけどどれもやっぱり食べては吐いた。結局口に出来たのは文献通り水だけだ。
 首を傾げことで俺が意味がわかっていないことが伝わったのか、経親は眼差しで笑みを深くする。
「実体を持って交わることにより、御使殿の神通力を西埜風にお渡しになれば、瘴気を浄化することができます。......ただ、それをお召し上がりになれば御身は豊葦原に固定され、大和に帰ることは相成りませぬ。自由に行き来出来る羽衣、脱ぐ気はございますか?」
 ......。
 上手く経親の言葉が飲み込めなかった。
 これを食べると、俺は神通力が足りなくても人間になれる。でも、食べると帰れない。帰れないけど、西埜風に神通力を渡せば、しのかは助かる......?
「迷っている時間はあまりありません。御使殿にはこの地の食物から神通力を得て、西埜風に渡すだけの量を御身に蓄えて頂かなければいけない。遅れれば西埜風が瘴気に負けて、命を失う可能性もあります」
 え、ちょっと、待って? ...... え?
「このままだと西埜風はせいぜい二日の命だろうというのが、我らの見立てです」
 経親が畳み掛けるせいで、俺の混乱は更に極まった。志那都比古の神体に視線を向けるが、よほど力を消耗していたのか俺が呼びかけても反応はない。
「騒がしい中では考えも纏まらないでしょう。......お前たち、下がりなさい」
 その言葉に巫女たちが演唱をやめ、経親に一礼すると静かに出ていった。それを見送った経親も立ち上がる。
「早めのご英断をお待ちしております」
 経親も出ていき、俺は一人残された。立ち尽くしていた俺はぼんやりとうず煮を見下ろす。
 普通の雑炊だ。これを食べたら日本に帰れなくなるなんて到底思えない。だけどわざわざ経親が俺に嘘を付く理由もわからなかった。
 帰れなくなる、けど......しのかを助けられる......。
 時間はないって、言ってた。今こうしている間にも、しのかが苦しんでる。
 別れるとき俺はあいつに言った。選べるわけないって。......残れるはず、ないって。
 都で会えるなんて思わなかった。知春を見つけたらすぐに連れて帰るつもりだった。だから、会社も休職にしてきたんだ。
 まだ行ったことない外国にだって行きたい。最近会えてないけど、友達だっているしなにより向こうには家族がいる。
 今まで意識したことなかったけど、俺だって長男なんだから、家を継がなきゃいけない。
 文化だって似たようでも違うから俺は馴染めないだろう。こっちの世界にはテレビもないしゲームもない。
 楽しい娯楽施設もないし、現代日本より過ごしにくいのは明白だ。

 絶対、後悔する。

 俺はその湯気立つ器を眺めて動けなかった。
 部屋に時計がないから時間はわからない。けれど一人残された部屋で、日が落ちて行くのがわかる。薄暗くなった部屋の中で、その雑炊はすっかり冷えていた。
 食べるなら食べるで、早くしなければ間に合わないと経親は言った。
 しのかの命と自分の人生なんて、明らかに命のほうが重い。
 口を近づけては離し、離しては近づけるということを何度も繰り返す。しのかを助けられる可能性があるのに、自分の保身を考えて躊躇する自分が、なんだか汚い生き物のように思えた。
『無理はやめなァ幸彦。西埜風がもし死んでも、お前のせいじゃねえよ』
 静かにかけられた声に俺は顔を上げた。暗くなった部屋の中で、社の中にある志那都比古の神体だけが、光に彩られている。
『西埜女が死んだように、他の人間が死んだように、命あるものいつかは息絶えるもんさ。それが奴は少し早いってだけだ』
 志那都比古......。
『大丈夫。俺様がちゃんと高天原にまで送ってやらァ。こんな高待遇、めったにねえぞ。喜べ』
 俺を気遣ってなのか、明るく告げるその声にぞっとした。
 なまじ志那都比古が俺の声帯をそのまま使ってるだけあって、まるで俺がもう一人いて、その俺がしのかの命を見捨てようとしてるようだった。
 俺は床を見た。世界が歪む。なんだろうと思ったら、雫が現れて汁気を吸った器の中に落ちた。瞬きすると、更に涙が落ちていった。
 .........しのかはまだ死んでない。
 力なく言い切って、俺は膝を付くと首を下げた。舌先を伸ばしてぺろりと舐める。
 ......苦くない。これなら、食べれる......。
『幸彦......』
 志那都比古が俺を苦しげに呼ぶのも無視して、鼻先をつき入れて俺は食った。鹿の歯では食べにくいが、舌ですくい飲み込むように食べていく。器が空になるのはあっという間だった。
 冷めていたが普通に美味しかったのがなんか悔しい。
 俺は器を見下ろしながら、ほっと息をつく。だが、落ち着いていられたのはそこまでだった。
 みしりと骨が嫌な音を立てる。すぐさま身体中が熱に襲われた。
 っあ、あつい......ッ!
 立っていられずに畳に倒れこむ。脚をがむしゃらに動かすが、熱と痛みは立て続けに俺を襲った。
「.........っ......、あ、ああぁああああッ!!」
 喚く声が勝手に口から漏れる。軋む骨が痛い。肩を抱く腕はもう人間の肌で、畳を蹴っていた蹄はやわらかな爪先に変わる。
『人の状態でうず煮を食ってねえからな......堪えろ。その痛みはすぐに収まる』
「ぅ、ぐ、あぁあああ.........ッ」
 まるで一度身体をバラバラに分解して、再構築しているようだった。手足の感覚はなく、暴れるたびに回転する視界に目が回る。
 すぐに収まると志那都比古は言ったが、その苦痛はなかなか終わらなかった。完全に人に成っているのに、身体を駆け巡る激痛に畳に爪を立て、がむしゃらに暴れる。
 これが終わればしのかを助けられる。ただその一点を考えて、俺は体内から沸き起こる責め苦を耐えた。
 それからどれほど経っただろうか。辺りはすっかり真っ暗になっている。
 暴れる体力もなくなった頃には、体全体が重く痺れたような倦怠感に包まれていた。
 ぼんやりと天井を見上げていると、音もなく目の前の襖が開く。微動だにしない俺の視界に、濃い紫色の着物の裾が入った。
「改めて歓迎いたします。御使殿」
 上から顔を覗き込まれた。目を細めて扇子で口元を覆う男の胡散臭さに、俺は転がったまま目を細める。
「しのか、はどこだ......?」
 声が掠れた。上半身を起こそうとするが神通力が足りてなかったせいか、体全体がだるくて動かない。無様に畳をのたうつ俺を見て、経親が後ろを振り返る。
「お連れする前に、御使殿には睡眠とお食事を取っていただこう。時臣」
「御意に」
 うず煮を持ってきた男が経親の斜め後ろに控えていて、その男は俺を白い着物で包むと「御免」と言って抱き上げた。男は俺よりも全然ガタイが良く、軽々と持ちあげられてしまう。
 その状態に男としての矜持が刺激されたが、身動きひとつ取れない俺はどうすることも出来ない。
「睡眠と食事って......せめて一目でもいいから、会わせろよ」
「今は一刻も無駄にできないと先程も申し上げた」
「けど......!」
「大局が見えていない御方だな。無能を晒して西埜風を死に至らしめるおつもりか」
 上から見下ろされた俺は、脳が沸騰しそうだった。感情に任せて溢れ出しそうになる風を、手を強く握り締めることでそれを耐える。
『西埜風は俺様が見ておいてやっから大丈夫だ。行ってこい』
「ありがとう志那都比古......頼む」
 ちかっと暗がりで光を見せた志那都比古に俺が頼み込んでいると、経親と時臣は一瞬だけ顔を見合わせた。
 それはほんのまたたきだけで、すぐに時臣は向きを変え、足元を照らす女中に案内されるままに俺を別室に運ぶ。
 布団の敷かれた部屋に辿り着く前に、俺はそのまま気を失っていた。


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