インナモラートの傷跡1-2

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 グローブ越しに感じる鈍い衝撃。拳を繰り出すごとに汗が飛び散る。
 ぐらぐら揺れないようにサンドバッグを押さえてくれる会長は、さかんに声をかけていたが、平祐の耳には入らなかった。
 目の前にいるのは、あの腹黒い男だと言い聞かせて殴る。
 十八歳以下の高校生、ジュニアのアマチュアは二分のラウンドに一分のインターバルを挟んだが、プロを目指すとなると三分に一分がワンセットとなる。
 身体が二分のラウンドに慣れていて、それに六十秒追加すると平祐の身体は悲鳴を上げ始めた。
 初冬に受けたプロテストは、自信があったにもかかわらず、落ちた。
 プロへは狭き門ながら、十中八九受かるだろうと思われていた平祐の落選に、ジムのメンバーには動揺が走った。
 受かったら試合を組もうと予定していた会長は、引きつった笑みを浮かべて「調子が悪かっただけだ。次があるよ」と慰めにならないことを口にしたが、平祐は自分が落選した理由を知っていた。
 同級生幼馴染である長谷川渉が、自分を振ったのが原因だ。
 ......いや、平祐は自分よりあの軽薄な男を選んだことが、精神を乱してプロテストにさえ落ちた原因だと思っていた。
 清水睦。渉と同クラスの委員長であり、大多数の人間には優しく温厚な人物だと思わせるほど、偽るのが上手い男だ。
 平祐は、小さな頃から側にいた幼馴染の渉がずっと好きだった。
 今後告白せずに親友という立場で終わっても、一生繋がりがあるなら我慢が出来ると思うほどに、穏やかな愛情を注いでいた。
 先天性の夜盲症という病気を患い、暗がりでは目が使えなくなる幼馴染の手を、平祐はずっと握って歩いてきたのだ。
 その渉に、清水がひたむきで粘着質な視線を向けていたことに気づいたのはいつの頃だろう。
 春の桜の花びらを纏った髪に指を滑らせたときか、それとも夏の日差しで汗を滴らせる肌に軽く触れたときなのか、もしくは秋の風に首を竦ませた渉に、自分のカーディガンを羽織らせたときか。
 渉と触れ合うと、肌がちりっと焼けるような眼差しを清水は向けてきていた。
 それでも平祐は、渉が気づかない間は無視していられた。それが変わったのは、季節が巡って秋の文化祭を迎えた頃だ。
 気まぐれから文化委員になった渉と、それを補助するという名目で纏わり始めた男。
 今まで気にかけてなかったことが嘘のように、渉は清水に惹かれていった。
 休日に一緒に外出することになり、そわそわと服装を気にする渉はまるで初デート前のようで、気が気でなかった。
 無心になりたくて、ジムで今日と同じようにサンドバッグを殴っていた。
 そこに、渉が来たのだ。どこか傷心でぼんやりとした表情で。
 問いかけると荒れて暴言を吐く渉に、平祐は胸を痛めた。どんなに不機嫌でも、当り散らすことなどなかったのに渉に何があったのか。
 深く優しく尋ねると渉は平祐に身を任せながら、心情を吐露した。
 好きかもしれないと、呟く渉に頭が真っ白になった。
 一から説明させて途方に暮れた表情で頼ってくる渉に、平祐はもっとも合わないアドバイスをしたのだ。
 そして思った通りに渉と清水の仲は拗れた。
 落ち込んで精神的に不安定になる渉を見て、平祐は寄り添った。無意識に寂しげな表情をする渉に罪悪感を刺激されたが、これでよかったのだと自分を納得させた。
 だが、男の方が一枚上手だった。
 平祐がボクシングのプロテストで忙しくしていたときに、渉をクラス内で孤立させてまんまと心の中にけして抜けることがない想いを根付かせてしまったのだ。
 明るく屈託なく笑う渉が好きだった。けれど、男の陰湿で絡みつく根が、その笑顔を消し去った。
 渉は今もクラスで孤立している。
 事情を知らないクラスメイトの憎しみにも近い視線も受け流し、あけすけに首筋や鎖骨に散らされたキスマークを晒して、どこか物憂げな空気を纏って、心無い噂の中に一人で立たされている。
 そんな渉を見たくなくて、平祐は手を差し伸べた。
 周囲を黙らせるような力はないが、それでも渦中に一緒に立つ事はできる。傷ついてぼろぼろになる渉を支えたかった。
 だが、それは渉から拒絶された。
 渉は自分を孤立させるために動いた男が好きだという。自分の手を握っては清水の手を握れないからと言う理由で渉は今も一人だ。
 別に自分を好きになってほしいなんて思わなかった。今までと同じ時間を過ごしたかっただけなのに。
 動き続ける筋肉が悲鳴を上げる。それでも構わずにグローブを纏った右手で強くサンドバッグを打ちつけると、そのサンドバッグを押さえていた会長が思わずよろめいた。
 身体から立ち上る湯気と、全身に纏った気迫。そして打ち付ける音の大きさに、ジムにいた練習生やコーチの視線を一身に受けながら平祐はようやく動きを止めた。
「いやあ、凄いな吉岡! 次のプロテストは通過間違いないだろう!」
 会長は目尻に皺を刻んで豪快に笑うと、平祐の背中を叩いた。
 鍛えている平祐はよろめきもせずに、会長の白髪交じりの薄くなった頭部をぼんやりと見る。
「来月のプロテスト、申請出すぞ」
「......もう少し時間をもらえますか」
 平祐の言葉に、会長は少し憮然とした表情になった。だが、一度落ちたことを考えて平祐が慎重になっていると思ったのだろう。
「吉岡、お前はもう大丈夫だ。これなら次は絶対受かる!」
 いや、まだだ。
 平祐はうっすらと笑みを浮かべる。
 その表情を見た練習生の何人かは思わず視線を逸らし、会長は思わず真一文字に口を噤んだ。
 グローブを外して吹き出る汗をタオルで拭う。
「俺『絶対』って言葉、信じてないんで。もっと精度を高めてからプロテスト受けます」
 まだ、昇華しきれていない思いを抱えたまま、前に進むことは出来ない。
 幸か不幸か、ボクシングのプロテストは大都市であれば毎月開催される。
 もっとも、合格ラインに届かない練習生は容赦なく落とされるので、プロテストになれるのは一握りだ。
「......そ、そうか」
 雰囲気に呑まれたような会長としんとしたジムの中を見回し、スポーツドリンクで喉を潤してから平祐はパーカーを羽織った。
「ジョギングしてきます」
 返答を待たずに外に飛び出す。
 冬は日が落ちるのが早い。
 早い時間からジムに来ていたはずなのに、いつのまにか外は真っ暗になっていた。
 外が暗くなると平祐は決まって渉のことを思い出す。もう想うことをやめようと思っていても、これはもはや脊髄反射だ。
 渉の夜目の代わりは自分ではない。そう言い聞かせて、平祐は軽やかに走り出した。
 ジムは繁華街の裏通りに位置している。
 駅から少し離れるが、周囲には夜の店が多いせいか人通りは絶えない。歩行者とぶつからないように人気のない道を選んで走る。街灯の少ない薄暗い路地を抜けて、少し行くと公園にたどり着いた。
 地域では一番大きな公園の周囲には囲うように遊歩道があり、中心にはベンチや遊具もあって昼間は親子連れでにぎやかだが、所々に生えている木々が街灯の明かりを遮り、視界も悪くなるために夜は人気がない。
 入り口には剥げかけたペンキで『夜間、痴漢に注意!』と書かれた看板が立てかけてあった。
 痴漢も暗闇も怖くない平祐は、夜間は遊歩道をジョギングコースにしていた。黙々と何週か周って疲れを感じた頃にジムに戻るのだ。
 点々と間隔を開けて立つ街灯の下、黒く影を浮かび上がらせて平祐は走る。
 走っている間、心に思い浮かぶことは渉のことばかりだ。いくら忘れようとしても、未だに気づけば考えてしまう。
 自分がこんなに女々しく、未練がましい性格だと思わなかった。
 もっとなりふり構わず縋り付けば、きっと渉は自分を無下にできない。そんな思いもあるのに、プライドが邪魔をして今も渉に近づけない。
 頼っていたのは自分だった。渉の手を引いているつもりで違っていた。
 真っ暗な中で手放されて立ち尽くしているのは、自分なのだ。
「.........ははっ」
 乾いた笑いが口から零れ落ちた。自嘲は闇にあっさり溶けていく。
 自分でも良くない精神状態だと思うのに、転がり落ちていく思考が止まらない。
 今はボクシングに縋っているからどうにか平常を保っているが、そのうちそれさえ失くしそうな自分が平祐は怖かった。
 気づけば足が止まっていた。
 はっはっ、と短く切れた自分の呼吸が耳に入る。それに重なるように、誰かが言い争う声が聞こえた。
「やめっ......、......ーッ.........てめ......!」
「......ざけ、.........ら......ッ......」
 遠いような近い場所から、切迫した物音が平祐の元まで届く。ぼんやりと視界を巡らすと、公衆トイレが目に入った。
 『痴漢に注意』という、先ほど見たばかりの決まり文句が頭を過ぎる。
 平祐はこじんまりとした建物に近づく。
 すると漏れ聞こえた声が低く、双方ともに男だと気づいて、平祐はぴたりと足を止めた。
 声が漏れているのは男子トイレだ。
 少し前に、公園を通り過ぎようとしたOLが痴漢に襲われたと聞いたので来てみたが、男同士のただの喧嘩なら他人が手を出すまでもないだろう。
 そう思って踵を返しかけたところで、耳が拾ったのは更に物騒な言葉だった。
「......っごくんじゃない。もう殴られたくないだろ、な?」
「っや、ッいた、いてえって! ......うぅ、うー......っ」
 やたら上ずった興奮したような声と、低い泣き啜るような声。濡れた水音。肌と肌がぶつかり合って、パンパンと下世話な音を立てている。
 頭上で、切れかけの蛍光灯が瞬いた。
「あー。イイ......ッ」
 音が聞こえるのは男子トイレの一番奥の個室だった。公園にはいくつか公衆トイレがあるが、ここはあまり目立たなく、古めかしいままだ。
 他のトイレは改装したばかりで、個室のドアがプラスチックだか合板だかイマイチわからない硬いものだが、ここは未だ木で出来たドアを使っている。
 平祐はぐっと拳を握った。構えを取って、一度深く深呼吸する。


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