そのご-1
博也が、気持ち悪い。
密かに春樹はため息を付く。
山浦に説得された翌日から、普段早起きが苦手なのに、博也は本当に春樹の家に来るようになった。
朝食持参で、春樹の分もある。2人でそれを食べてから学校に登校する。
通学路での会話は殆どない。
春樹は話す方ではない上に、博也も春樹との共通の話題がないからか、あまり話しかけてこない。
並んで歩いて、時々手が触れ合う。すると、じわりと春樹の体温が上がる。
自分の反応に動揺しながらも、春樹が盗み見た博也は平然としていた。
博也は春樹の体調の変化には気づいていない様子で、春樹はホッとした。
学校でもあまり横暴な振る舞いはなくなった。人の目が合ってもなくても、殴る回数は減った。
時折、思い余って手が出そうになるのことはあるようだが、その度にぎゅっと拳を握って耐える。
それを見るたびに殴ればいいのにと春樹は思う。
また、性行為の強要もなくなった。キスの強制もない。
2人きりでいる、休み時間、昼休み、下校時。時々博也は春樹の顔に触ってくるが、命じてくることは少なくなった。
代わりに、増えたことと言えば。
「春樹」
2人きりで、部屋にいると甘く囁いて博也が顔を寄せてくる。
目の中に浮かぶのは、はっきりとした劣情。
春樹が身体を震わせると、鋭い眼光を隠すように博也が目を閉じる。
重なる口付けは、とても優しいものだ。
「ふ、ぅ......」
角度を変えられる口付け。甘いキス。
春樹はくらくらと眩暈を感じてしまう。
博也も春樹もキスで息が上がるが、前のように有無を言わさず奉仕をさせることはなくなった。
抱きしめられて腰を擦り付けられる。
キスで身体が熱くなり、中心にある芯が緩く立ち上がっている時は、それが擦れて、思わず声が漏れそうになる。
博也が強要しなくなってきてからの方がむしろ、軽い触れ合いに身体が反応するようになってきた。
そのことについて、春樹は深く考えないようにする。
一度考えて出た答えを、春樹が拒否しているからだ。
横暴で自分勝手で暴力も振るう。そんな相手を誰が好きになる。
自分は博也を好きじゃない。そんなマゾじゃない。
そう言い聞かせる。
でも。
最近の博也の行動に、春樹は戸惑ってばかりだった。
わがままも減り、自分に気を使うようになった、横暴ではない博也。
ドキドキと高鳴る鼓動の回数は増えるばかりで春樹は呼吸の苦しさを覚える。
暴力を振るわない博也は、博也のようで、違う人のようにも思えた。
「......もと、辻本!」
大きな声で名を呼ばれ、春樹はびくっと過剰に反応してから僅かに周囲に視線を彷徨わせた。
「どうした?目を開けたまま寝てたのか」
教壇に立ち、チョークを握ったまま視線を春樹に向けた数学教諭は、そう少し茶化すように声を掛けた。
「いえ。すいません、少しぼんやりしてました」
「よし、じゃあ前に出てこの問題解け」
教師はチョークでカツカツと黒板を叩き、注意を向けさせた。
学習をしていた部分だ。問題さえ見れば解ける。
ガタンと椅子の音を立てて立ち上がり、春樹は前に出てその問題を解いていった。
なんなく授業も終わり、掃除の時間。
箒で教室の床を掃いていると、すすすと誰かが近づいてきた。
「つっじーぼんやりしてたけど、どうしたの」
自分と同じように箒を握った山浦だ。
一度倒れて心配をかけてからは、何かと一緒にいるようになった。
下から見上げてくる眼鏡の奥の一重を見返し、春樹は首を横に振る。
「なんでもない」
「むらやんと喧嘩した?」
この質問は、これで三度目だ。
なんだかおかしい気持ちになりながら、春樹は首を横に振る。
「ちゃんと話、してるの」
「さあ」
「さあって......ちょっとこっちに来て」
やる気のない春樹の答えに、眉をしかめた山浦は、春樹を連れて教室を出る。
箒を持ったまま移動する2人に、何人かが視線を止めるがそれを気にすることはなく、非常口から外に出る。
「まだむらやんに酷いことされてるの?」
ぼんやりした様子の春樹に山浦が詰め寄るが、春樹は首を横に振るばかり。
「時々手は出るみたいだけど、すぐに謝るし、跡が残るような酷いことはされてない」
「だったら良かった。でもそれならなんでここ数日ぼんやりしてるの」
首を傾げて不思議そうに問いかけてくる山浦に、春樹は少しだけ迷った仕草を見せたが、不意に口を開いた。
「なんで、博也はまだ俺と付き合ってるんだ」
「は?」
「前は結構博也が一方的に俺に命令したりしてたけど、今はそれもない。ストレス発散に殴ったり、その......性欲処理に使ったりとかも、なくなったし。抱きついてきたり、キスはするけど、ずっと一緒にいるだけなんだ」
もはや山浦に対して取り繕うことはしない春樹は、淡々と今の状況を説明していく。
「どうして博也は俺に何もしないんだろう。と考えていて、つい注意力散漫になっていたんだと思う」
「......何つっじー、手を出されたいわけ?」
「え」
山浦から出た言葉に、春樹は固まる。
意識していないことを指摘され、春樹の体温がだんだんと上がっていく。
無表情のまま真っ赤になった春樹を物珍しそうに眺めた山浦は、口元を緩ませた。
「良かった。ちゃんと改善されてるね」
「いや、山浦俺は別に殴られたいとかそういうわけではなく」
「うんうん。つまりはもうちょっとむらやんに先に進んでもらいたいんだね!」
言い切られた春樹は、少し首を傾げる。
山浦の言う『先』がどこのことだかわからなかったのだ。
「わかった、僕からむらやんに言っとく!」
「ちょっと待て山浦」
「大丈夫。酷いことはしないように釘はさしとくから!」
言うって何をだ。それを説明してくれ。そう言い切る前に、山浦は校内へと戻っていってしまった。
残された春樹は、途方に暮れるしかない。
山浦も前とは少し変わった。斜に構えていたところがなくなり、よく笑顔を見せるようになった。
その件について、桜庭に嫌味を言われたことも合ったが、それはまた別の話。
「山浦、博也に何を言うんだろう......」
少しの不安とはまた別の期待とも取れるような気持ちがない交ぜになって、春樹はため息をついた。