そのろく-1

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「ねー!見た?村瀬君の首!」
「見た!すっごいよねー!やっぱり噂の年上の恋人に付けられたのかな?」
「マジ情熱的だよねーってか、ストーカー並みの執念がありそう!村瀬君モテるしねー!」
 授業と授業の間の休み時間。
 会話に花咲き、興奮気味のクラスメイトの声は、嫌でも春樹の耳に入る。
 甲高い女子生徒の声が耳障りで、春樹はそっと席を立つ。
 特に何もないのに、ベランダに出て空を見上げた。
 空は青く澄んで、雲ひとつない。眺めていると、うっかり現実逃避したくなる。
「あれじゃもう合コン誘えねえじゃんかよー」
「いいんじゃねえのー?博也いると一番可愛い子持ち帰りされるし」
「まあなー。でもアイツいた方が女来るしさぁ」
「だよな。......でもあんな目立つ歯型が合ったら呼びにくいよな」
「なー」
 現実逃避の為に出てきたベランダでは、隣のクラスの男子生徒の声を、よく拾ってしまった。
 今はどこもここも、博也の話で持ちきりだ。
 居た堪れない。
 春樹はぎゅっとベランダの手すりを握って俯いた。
 きっちり第一ボタンまで締めた為、春樹の首筋のあざはぎりぎり他人の目に触れることはなかった。
 これで自分まで見える位置にある痣であれば、噂は瞬く間に立ち上ったことだろう。
 良かったと思う反面、隠す努力をしない博也に春樹は頭を抱えた。
 それどころか、博也はネクタイもせず堂々と、制服の第三ボタンまで外して痣を見せびらかしていたのだ。
 服装を注意する生徒指導の教諭に追いかけられた博也は、上機嫌に校内を駆け回って逃げた。
 その所為で、今では博也の痣を知らぬ生徒はいないというほどに有名になってしまった。
 自分が気にしているせいなのか、どこに行ってもその話ばかりが耳に入る。
 春樹は大きくため息をついて、教室に戻ろうと振り返った。
 だが、間近にいた影に気づかなかった春樹ははっと息を飲んだ。
 春樹が無意識に避けていた相手、山浦である。
 山浦は真面目な顔で春樹を見上げていた。
「つっじー。あのさ、むらやんの首のあ」
 言いかけた山浦の口を、春樹は両手で押さえ込む。
「あれはあいつが調子に乗って見せびらかしてるだけで、俺が付けたかったわけじゃないんだ」
 信じてほしいと見つめる春樹の前で、山浦が目を見開く。
 驚いた様子の山浦に、春樹は動きを止める。恐る恐る手を離すと、山浦は感心したように頷きながら口を開いた。
「あれ付けたのって、つっじーだったんだ」
「......」
 自ら墓穴を掘ったことに気づいた春樹は、思わず手で額を押さえた。
 視線を合わせられず、かあっと熱くなる自分の体温を感じる。
「凄いね、みんな言ってるよ。独占欲の強い恋人が出来て、むらやんもまんざらじゃないみたいだって」
「だから俺は......つ、付けたくて付けたわけじゃない」
 耳まで真っ赤に染まった春樹に、山浦は首を傾げた。
「じゃ、なんで?」
 純粋な疑問をぶつけられて、春樹は口ごもった。
 隣を見ると、先程博也の話をしていた男子生徒は、既に教室に戻ったようである。
 ベランダに出ているのは、春樹と山浦しかいない。
 戸惑いながらずるっとしゃがみ込んだ春樹は、自分のシャツのボタンを外して、山浦にだけ見えるように首を露にした。
「付け、られたから......」
 視線を逸らし、恥ずかしげに首筋から鎖骨までを晒す春樹に、山浦まで釣られて赤くなりながら「うわお」と呟いた。
「付けられたから付け返したのかー。つっじーやるね!」
「え、いや、俺は別に仕返しをしたかったんじゃなくて......」
 他人には見られないようにそそくさと服装を正した春樹は、言い訳を重ねようとしたが、ポケットから携帯を取り出して顔をしかめる山浦に気を取られる。
 山浦はちっと舌打ちをすると、春樹に向けて携帯の液晶を見せた。
「むらやんさ、つっじーと話してるとすぐに嫌味言ってくるんだけど、どうにかしてくんない?」
 『白豚。それ以上春樹と2人きりで話したら黒く塗りつぶしてやる』と簡素に書かれた文面に、春樹はあっけに取られる。
 周囲を見回しても、博也の姿などどこにもない。
「ホントもう、いつもどこで見てるのかなあ」
 山浦は携帯をしまいながらぼやいた。それには春樹も深く頷く。
 春樹は山浦の『いつも』が気になったが、突っ込まないでおいた。
「ところで、つっじー。今日の体育の時はその首の痣、どうするつもり?丸襟の半そでだから、目立つよ」
「......あ」
 山浦の指摘に、春樹はさっと顔を青ざめた。
 制服で隠すことばかりを考えていて、着替えたときのことを考えていなかったのだ。
 今の時期、長袖を着るのはそれはそれで目立つ。
「絆創膏で隠すとか」
「ちらっと見た程度だからなんともいえないけど、その痣隠せるだけの大きさの絆創膏、あんまりないと思うけど......」
 それよりも首筋に絆創膏って、ベタすぎる。と考えつつも山浦はそう助言した。
 しばし固まるようにして考え込んだ春樹は、ゆっくりと山浦に縋るような眼差しを向ける。
 いいアイデアが浮かばなかったらしい。
 前よりも表情を見せるようになった春樹に、山浦は薄く微笑むとチャイムに合わせて背を向けた。
「......あ、中に戻らないとー」
「や、山浦、頼む。......知恵貸して」
 春樹にぎゅっと制服の裾を掴まれる。
 戸惑うその瞳は潤み、心底困り果てた様子が伺えた。
 むらやんが惚れるのもわかる気がする、と春樹に頼られた山浦は「しょうがないなあ」と建前を口にしつつ、とりあえずの対処法を教えたのだった。


 山浦が春樹に教えたとりあえずの対処法。
 すなわち体育の時間の欠席。
「すいません。体調が悪いので保健室で休んでもいいでしょうか」
「辻本か、あんまり酷いようなら病院に行けよ」
 一度倒れた春樹に、体育教諭も無理に授業に参加させることはなかった。
 簡単に許可を得た春樹は、良心の呵責に苛まれつつも保健室に向かう。ここでも養護教諭に体調が悪いことを伝えると、すぐにベッドに寝るように告げられた。
「具合が悪いなら、帰りなさいよ。無理すると長引くからね」
「はい。......すいません」
 穏やかな声に、またもや心がしくしく痛む。無意識に謝る春樹に、養護教諭は少しだけ苦笑した。
「ついていてあげたいんだけど、ちょっと会議があってね。1人でも大丈夫?」
「大丈夫です。すいません、この時間だけ寝かせてください」
 春樹を気にしながら保健室を後にする教諭に深く頭を下げると、ほっと息を付いて白いカーテンを引き、ベッドに腰掛けた。
 体調は悪くない分横になるのは気が引けるが、自らサボったのだから寝ないわけにはいかないだろうと、春樹はベッドに寝転ぶ。
 何もしないで天井を見上げていると、脳裏に浮かぶのは昨晩から今朝にかけてのことばかりだ。
 嬉しそうに見せて回った首の痣。抱き合うように寝ていた一夜。自分から仕掛けた口付け。
 強制されずに自分の意思で行ったキスは、いつもと違う感触がした気がする。
 それを思い出すとドクドクと強く心臓が脈打ってしまう。
 自分の指で下唇を撫で、その感触を思い出していた春樹は、廊下を走りぬける足音に気づくのがワンテンポ遅くなった。
「春樹ッ!具合悪くなったって......!」
 バンッと大きく音を立ててドアを開け放ったのは、春樹が唇の感覚を思い出していた相手。
「博也」
 声に思わず起き上がるのと同時に、カーテンが引かれた。
「大丈夫か春樹!」
「わ......っ」
 勢い良く飛び込んできた博也にベッドに押し倒され、春樹の鼓動はまたもや大きく跳ねた。


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