インナモラートの微熱2度04

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 渉に呼び出された平祐は、練習を中断されたせいかどこか不機嫌そうに見えた。
 それでもジムの外に所在なく立っていた渉を見ると、手招きし中へ迎え入れる。
 スパーリングやリングで模擬試合をしている隣を通り過ぎて、フロアの中にあったこじんまりとした事務所に通された。
 事務所にはテーブルに二人かけのソファーが向かい合うように設置してある。
 窓の外からはすぐにリングが見えた。
 来客用の事務所ではないのか、ごちゃごちゃと雑誌やペンたてなどが占めているテーブルを眺めながら、渉はタバコの染み着いた匂いがするソファーに腰を下ろす。
 そして向かいに座った平祐に頭を下げた。
「練習中に悪い」
「いや。それでどうしたんだ。クラスメイトの清水と出かけたんだろう」
 もっともな問いに答えられずに渉は俯いた。
 詳しく説明できる自信がない。
 黙っていると、大きくため息を付かれた。
「わ、るい。......俺帰るわ」
「待てよ」
 立ち上がった渉の腕を平祐が掴んで留める。
 びくっと過剰反応した渉に、平祐は眉間に皺を寄せた。
「清水となにかあったんだろう。言え」
 力を込めて手を引く渉を逃さない為にしっかりと握りしめる。それが少し痛い。
「......言いたくない。急に来て悪かったよ、怒んなって」
「渉」
 腕を掴まれた手の力加減から怒ってるのだと勘違いした渉がかぶりを振ると、平祐はさらに険しい顔つきになった。
 そのままちらりと窓の外に視線を向ける。
 すると、練習していた筈の何人かが慌てて視線を逸らした。
 渉と平祐のやりとりは音は聞こえないものの、争う様子はまるわかりだ。
 平祐はその余計な視線を遮るために、渉を掴んだまま事務所のブラインドを下げる。
 途端に事務所の中は暗くなった。
 窓からの明かりでも室内が十分明るかったために、室内ライトをつけていなかったのだ。
 平祐は十分に見える範囲だが、渉は近くにいる平祐の表情さえろくに見えない。
 急な暗がりに動きが強張った。
 そんな渉の状態を把握しつつも、平祐は部屋の明かりを付けずに問いかけた。
「清水になにされたんだ」
「ッ」
 『何があった』と『何をされた』では表現が全く違う。
 キスをされそうになって、いつもと違う香りを嗅いだことを思い出して、渉はきゅっと目を閉じた。
 先ほど感じていた苛立ちが蘇る。
「放せよッ! 言いたくねえって言ってんだろ?!」
 感情のままに暴れる渉の膝にテーブルが当たる。
 卓上にあったものががしゃんと音を立てた。
 ペンたてからペンが床に落ちる。
「おい、危ないぞ」
 渉が周辺を見えていないことを知っている平祐は、それを踏んでは危ないだろうと、より動きを制限するために羽交い絞めするように抱き締めた。
「放せって!」
「床にペンが落ちた。危ないから動くな」
 一方が冷静だと激昂は続かない。
 自分の行為が駄々を捏ねた子供のように思えて、渉は急に気恥ずかしくなった。
 渉が動きを止めても平祐はすぐに放そうとはしなかった。
 拘束していた腕が、抱擁を表すようにゆっくりと渉の背中を撫でていく。
 闇では視覚が衰えるせいか、渉は触覚や嗅覚が人より優れている。
 今も抱き締められたせいで感じる平祐の体温と体臭に高ぶっていた感情が緩んだ。
 兄弟も同然に小さい頃から一緒にいた平祐は、自分の味方だと本能で知っている。
 平祐の首筋をスンと嗅いだ渉は、こてんと額を平祐の肩に乗せた。
 ぽんぽんと背中を叩かれると、渉はより落ち着きを取り戻した。
 もう大丈夫と意思を込めて平祐の背を叩き返す。
「......襲われたのか」
「なんで、そうなるんだよ」
 渉はごまかすように笑ったが、平祐は笑わなかった。
 渉の笑い声が消えると、平祐はゆっくりと誘って再度ソファーに座らせた。
 そのまま平祐は部屋の明かりをつけたのか、急にぱっと明るくなる。
 床に転がっていたペンを拾った平祐は、真顔で渉を見ると「大変だったな」と頭を撫でてきた。
 何か流れがおかしいと思ったが、渉はそのまま撫でられていた。
 平祐の手はごつごつと角張っていて堅いが、動きはひどく優しいのだ。
「もし清水が気に食わないならそう言え。俺がどうにかしてやる」
「そういうんじゃないんだ。......ただ......」
 渉は自分が何を言おうとしてるのか、よくわからなかった。
 それでも平祐に相談すればきっと良い答えがもらえると口を開く。
「清水と一緒にいるとドキドキするんだ。アイツが笑うと俺も嬉しくて幸せで、なんか身体が熱くなるんだ。けどアイツ、清水には男の恋人がいるみたいで、恋人といちゃいちゃしてんの見ると気分悪い、し......お、俺、アイツ好きなのかな......とにかく、なんかキスしようとしてきたから、俺飛び出して来たんだけど......」
「......」
 返事がない。おや、と思って渉は親友を見上げる。平祐は難しい表情をしていた。
 目が合うとこめかみを揉みながら小さく唸る。
「それじゃわかんねえよ。清水と会った時から、全部順を追って詳しく話せ」
「う、ん」
 全部と言われてやや戸惑いを覚えたが、平祐に話せばきっといいアドバイスをもらえるだろうと渉は全てを話した。
 肩を抱かれたときに思ったことや、清水のつけてる香水のこと、そして恋人と思われる男のことも。
 渉は思い出すだけでもふわふわした気持ちになって脱線しかけたが、そのたびに平祐は修正して先を促した。
 特に男が登場したときに清水の反応がどうだったかは詳しく聞かれたが、そこは自分の主観を入れないようにと思いつつ、渉は「嫌がっているようにも見えたけど自信はない」と付け加えた。
 全てを聞き終わった平祐は、暗い顔をして頭を抱えた。
「お、俺はどうすれば良いと思う?」
「聞くのか。それを、俺に」
 じろりとねめつけられて、渉は肩身の狭い思いで首を竦めた。
 話せと言われたから言ったのに、ちくちくと睨まれて渉は不貞腐れた表情になる。
 しばらく押し黙って考えた平祐は、やがてゆっくりと口を開いた。
「無視すればいい」
「え?」
「清水、恋人いるんだろ。たぶんお前は愛人だ。二号。二番目。浮気相手にしようとして、手を出そうとしたのに本命に見つかったから慌てて取り繕うとしたんだろうよ」
 あいじん。うわきあいて。
 平祐に与えられた立場に渉は衝撃を受けた。
 ショックで表情がこっそりと抜け落ちたような渉に、平祐は痛ましげに目を細める。
 だが平祐の言葉は続いた。
「幸い、お前は清水を罵って逃げてきたんだから、明確に立場を示してる。これ以上近づかないように何を言われても無視しろよ」
「......」
「わかったな。清水が言い訳するかもしれないが、それは嘘だ」
「嘘......」
 清水が、俺に嘘をつく。
 ぎゅっと心臓が締め付けられるような感覚に、渉は下唇を噛んだ。
 平祐は静かに動いて渉の隣に座ると、そのまま渉の頭を抱き寄せる。
 渉もその手に逆らわずに平祐に寄りかかった。ぽっかりと空いた空間に、平祐の存在は染み入るようだった。
 目元を手で覆われる。慣れた闇にゆっくりと息を吐くと、額に何か触れる感触があった。
「平祐?」
 驚いて顔を上げると、平祐の顔がすぐ側にあって面食らう。
 目を見開いた渉に平祐はふっと笑った。
「お前のことは、俺がどうにかしてやるからな。弟みたいなもんだし」
「同い年なんだけど」
「脳のレベルが。一緒とは思えねえし」
「うるせえよ。もしかしてお前、小さい頃に俺の頭脳の頭いい部分取っただろ」
「どうやって」
「ストローで吸いだしたとか」
「馬鹿」
 くだらないことを言い合って互いに笑ったところで、平祐が立ち上がった。
「ほら、帰るぞ」
 事務所を出るように促されて出ると、平祐は自分の荷物をまとめ始める。
 練習していた何人かが平祐に話しかけるが、そっけなく答えてすぐに渉の元に戻ってきた。
「練習は?」
「朝からここにいたからな。少しセーブしろって言われてんだ。だから今日はもう終わり」
 そう言われてジムを出ると外は少し薄暗くなっていた。
 それでもまだ渉でも一人で歩ける程度の明るさはあるが、もしかしたら自分に気を使ってくれているのかもしれないと思うと、申し訳なく思う。
「平祐、俺一人でもこのぐらいなら帰れるから」
「お前俺にどんだけボクシングさせるつもりなんだ。休ませろよ」
 あくまで自分が帰宅するのにあわせて送るというスタンスを取った平祐は、笑って渉にハーフメットを投げつけた。


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