フェティシスト
僕が最初に彼に興味を持ったのは、理想の耳の形をしていたことからだった。
小さい頃から人の耳に異様な関心を持っていた僕は、とりあえず周辺にいる人の耳の形を確認するくせがある。
それでどうこうしようと言うわけじゃないんだけど、胸好きな男が胸を見るように、尻が好きな男が尻を見るように、僕は人の耳を見ることが好きだった。
耳の上側、軟骨の部分の緩やかなカーブと厚すぎず薄すぎない耳たぶ。
よく目を凝らせば、柔らかそうな産毛に包まれている。
なにより、大学生にもなってピアスも開けていないまっさらな耳というのは、なかなかお目にかかれるものじゃない。
僕はその『耳』にひと目で心を奪われた。
大学の授業中にも関わらず、僕は前の席のその人の耳だけを眺め続けた。
あまりに眺めることに集中していたせいで、終わりのチャイムの音さえ耳に入らなかった。
僕が我に返ったのは、僕の理想の耳が、いやその耳の持ち主が腰を浮かせたからだ。
耳から繋がる、少し骨ばった顎のライン。ちらりと見えた太目の眉。なにより耳が見やすい短髪。首は思ったよりも細かったけど、肩のラインはがっしりしていた。
つまりどう見積もっても、僕の理想の耳の持ち主は男だった。
遠ざかっていく後姿はジーンズにTシャツというラフなもの。
僕はその姿を強く目に焼き付けた。
絶対、またあの耳を見るぞという、強い信念を持って。
理想耳の彼は、僕と同じ授業をいくつか取っていた。
毎時間彼の姿を探し、見つかれば耳を眺めやすい位置に席を取る。主に彼の後の席だ。
僕には大学で一緒に授業を受けるような親しい友達はあまりいないから、彼の後に座る時は大抵一人だ。
真後ろの席だと見えにくいので、少し斜め後を選んで座る。耳はどっちも好みだけど、強いて言えば右耳が好みだ。だから僕は右後に座ることが多い。
その位置で座ることで、彼の名前も知った。
うちの大学では授業の最初に点呼ではなく、参加者が空欄になっている用紙が回される。出席している人はそれに名前を書いて次に回すのだ。
代筆しようにも筆跡でばれることがあるので、ちゃんと出席も取れるという優れものである。
その用紙は前から後に回されることが多い。だから、僕もたまに理想耳の彼からその紙を受け取った。
そこで名前を知ったのだ。
畑中久雅。文字は右上がりでお世辞にもキレイとは言えない。
名前が『くが』と呼ぶか『ひさまさ』と呼ぶかはわからなかった。彼もあまり他人と一緒に授業を受けることがないから、名前を呼ばれることもない。
まあ別に僕は彼の耳が見れればいいから、いいといえばいいんだけど。
畑中くんを知って2週間あまり。僕は至福の時間に浸っていた。
他の部分は筋肉質なのに、ふっくらとした柔らかいフォルムの耳。ああ、触りたい。
でも、そこで手を出すようなことはしない。僕は見て楽しめるだけでいいのだ。
授業が終わって、話を聞いていた生徒はそれぞれに散っていく。
僕も上機嫌で立ち上がった。今日は2コマ連続で彼と同じ授業だ。後の席が埋まってしまう前に席を取らねばならない。
いそいそと次の教室に向かう。
すり鉢式の講義室に入り、僕は彼を探した。......いた。
右側の中ほどの席に一人で座ってる。後の席はまだ埋まってないが、ぞろぞろと席に付く学生を見て僕も急いで席を取った。
今日は久々に左後に座ってみる。うん。たまにはこっちから見る耳もいい。
いつものようにうっとりと見つめていると、その耳が動いた。
畑中くんが振り返り出席用紙を僕に回す。それを受け取った僕は少し面食らって瞬きをした。
紙の端を彼が掴んだままなのだ。軽く引いてみても手放してくれない。
「名前」
「え?」
「名前書けよ」
低い声と真顔。どこか不機嫌そうに言われて、僕は慌てて用紙に視線を落とす。
急いで名前を書き上げると、その紙をひったくられた。
「八木沢......なんて読むんだ」
「つむぐ。糸偏に方向の方で、紡」
「へんな名前」
はっ、と鼻で笑われて、僕はむすっとしてしまう。
こんなに理想的な耳をしてるのに、性格はあまり良さそうにない。
僕の表情に気づいた畑中くんは、僕のノートの上に出席用紙を落とす。
「この授業終わったら飯、食堂付き合えよ」
そんな、誘いの言葉付きで。
不思議なことに、僕は畑中くんと少し仲良くなったらしい。
友達と呼べるかはまだちょっと疑問だけど、授業では前後の席に座り、その次の時間が昼食であれば向かい合って食事を取る。
そこで始めて気づいたのは、真正面から見る理想耳の形の良さだ。僕としたことが、後から隠れて見ることに固執するあまり、一度も前から見たことがなかったのだ。
これは僕にとって大切なことだった。声をかけてくれた畑中くんには感謝してもしきれない。
向かい合って座れば、耳を見ていても不思議じゃないから、僕は思う存分彼の耳を見ていた。
畑中くんは第一声は印象が悪かったものの、裏表がなく思ったことはすぐに口にしてしまう性格らしく結構さばさばしていた。
話も聞いていて面白い。どちらかといえば彼は人の中心にいるような人だと思ったけど、なぜか友人は少ないようだった。
それも、しばらく付き合っているうちに知ることになる。
彼は、同性愛者らしい。
畑中くんが授業を受けるために座った席のそばにいた男子学生が、あからさまに侮蔑の意を込めた眼差しでねめつけながら席をかえた。別の機会では僕の更に後の席に座った女の子たちが、くすくすと畑中くんの噂をしていた。
それでなるほどと僕は納得してしまった。
大学構内以外でも一緒に出かけたりと交流を深めたが、彼はいつまで経っても後に座る僕に対して並んで座れとかは一度も言わなかった。
ぴんと背筋を伸ばして一人で密かに授業を受けている。
僕はそんな畑中くんの耳をずっと見つめていた。
「今度の連休、うちに泊まりに来なよ。wiiやろうwii」
授業の終了後、僕はノートをしまっていた畑中くんの耳元に身を乗り出すようにして囁いた。
柔らかそうな耳が間近にあって、思わずむしゃぶりつきたいけどじっと我慢する。
僕の提案に、畑中くんは酷く驚いたようだった。
回答を待っている僕をぼんやりと見つめて、それからやがて視線を逸らす。
ああ、耳が赤い。たぶん今触ったら熱くなってるんだろうな。
「......汚部屋じゃねえだろうな」
「君が極度の潔癖症でなければ大丈夫だと思う」
僕の言葉にかなり本気で悩みこんだ畑中くんは、眉間に皺を寄せたまま了承するように小さく頷いた。
変な性癖はあるものの、趣味らしい趣味のない僕の部屋には物が少なく、掃除機をかければそれなりに人を呼べる部屋になった。
僕の部屋に来た彼は、意外に綺麗だとはしゃいだ様子で部屋の中を見て回った。
マイペースなところがある僕は、ずぼらだというイメージが持たれたらしい。
そりゃ、たまに寝癖を直すの忘れたりはするけど......多大なる偏見だと、丁重にイメージ訂正をお願いした。
部屋を見てひと段落すると、ゲームを始めた。ヒゲの土管工が活躍するゲームだ。
真面目そうな外見の畑中くんは思ったよりもゲームが上手だった。勝手にアウトドアしかしそうにないと思った僕も、イメージの訂正をしておくことにする。
ゲームのあとは僕の作った料理を食べて、それから買ってきたアルコールを飲みながらだらだらと話し合った。
夜も更けてきたころ、畑中くんが気まずそうにビールの缶をテーブルに置いて居住まいを正した。
「畑中くん?」
どうしたの、と声をかけると、畑中くんは時計をチラリと見やり、ゆっくりと口を開いた。
「あのさ、紡は俺がゲイだって......知ってるか?」
「うん。みんな噂してたね」
落ち着き払ったまま僕があっさりと認めると、畑中くんは視線を彷徨わせた。何度か唇を湿らすような仕草をして、何かを言おうとしているのがわかる。
そんなときでも、僕は彼の耳を見ていた。
赤く染まって、可愛い耳。......がじがじしたい。
甘噛みしたいな。なんて思いながら彼が話し出すのを待っていると、唐突に「好きだ」と言われた。
「え、っと......?」
告白を受けるとは思ってなかった僕は、目をぱちりと瞬かせた。その瞬間に赤くなっていた彼の顔が見る見るうちに青ざめていく。
同性愛者なのを知っていてもそばにいた僕に、同じ思いを抱いていると思ったんだろうか。
「あー......だよな、普通、そういう反応だよな。でも言っておきたくて......わりい」
謝られてしまった。
僕が更に戸惑っていると、畑中くんはショルダーバッグを掴んで立ち上がった。
「終電まだあるし、今日はやっぱ帰るわ。楽しかった」
なるほど、時間を確かめたのはそういう意味か。
僕が何か言う前に、畑中くんは玄関へ向かってしまう。
みれば、玄関に座った畑中くんが靴を履いていた。いつものようにぴんとした背中じゃなく、丸まった背中。
耳はいつもとおんなじ。僕の好きな理想耳。
悩みながら、僕は引き止めるべく彼に覆いかぶさった。ぴくんと身体を震わせて、畑中くんは動きを止める。
「僕はゲイじゃないんだ」
「......じゃ、離せよ」
彼の声が震えていた。僕が好きな耳もかすかに震えている。うーん、堪らん。
髪の毛の間から見えている耳が、僕に食べられるのを望んでいるような気がして、僕は舌先で耳を舐めた。
「っな......!」
畑中くんは驚いて僕の腕を振り払った。
玄関のドアに背中を打ち付けて信じられないものを見るように僕を見ている。
「からかってんのかよ!」
「そんなことしない。......僕、君の耳が物凄く好みなんだ。ずっと見ててもあきないぐらいに好き。噛んだり舐めたりしたいぐらいに好き」
「耳が?」
「そ、耳が。畑中くん自身のことは嫌いじゃないけど、そういう意味で好きじゃない。......けど」
ずいっと畑中くんとの距離を縮める。僕の方が身長は高いけど、体格では負けている。
大好きな耳に唇を近づけて小さく囁く。
「好きなときに耳を触らせてくれるんなら、僕は君と付き合いたい」
「っ」
ちゅっと耳朶に吸い付くと、畑中くんは僕の肩を強く掴んだ。
「変な趣味してんなお前」
「だめ?僕、正直言ってこれで君と会えなくなって、耳が見れなくなるぐらいなら付き合いたいんだけど」
「あくまで基準は耳なのか......」
引き剥がされて複雑そうな顔で呟かれる。
「うん」
嘘付いてもしょうがないから、僕はあっさりと頷いた。
畑中くんは何を悩んでいるのかなかなか答えない。
僕の方が焦り出してしまう。だって、僕が変だから気持ち悪くて近づくなと言われたら生きていけない。
「ね、付き合ってよ」
「う......うぅ、ん」
僕の方から畳み掛けて、ようやく畑中くんは頷いてくれた。
「じゃさっそく......」
触ってもいいという許可をもらったも同然だと、僕は彼に手を伸ばすが、ひょいっと避けられてしまった。
「お前がさわんのはあと。先にキスさせろよ」
「えっ......耳触らせてくれたらいいよ」
「駄目。キスが先」
あとから気づいたことだけど、僕が畑中くんの耳を触って、その間に彼は僕にキスすればよかったのに、このときの僕らはどっちが優先するかでずっと揉めていた。