8月-10
「ずっと大学にも来てなかったの」
そっと薫さんに耳打ちされた。
そうなのか。
俯いたままのヤツの顔を、俺は両手で頬を包む。
無精ひげが指に当たるのがくすぐったい。
じゃりじゃりしてるぞお前。
「ともあきさん......ごめんね。好きになってごめん」
目が合うと、謝る男の目に水膜が張った。
ぽろっと涙が零れていく。
「うん」
俺は頷く。
ヤツが視線を逸らそうとするので、両手でしっかり頬を掴んで固定してやった。
「困る」
「わかってる。......ごめんね」
ああ。そんなに泣いたら、目が腫れるぞてめえ。
「嫌じゃなくて、困る」
「......え」
「泣き虫め」
舌を出して、頬を舐めてやる。
しょっぱい。
驚いている男に、俺はそっと囁く。
「綺麗にして」
鼻血出したまんまじゃ、俺間抜けじゃねえか。
最初は意味がわからなかったヤツも、俺の顔を見て7月の大学を思い出したのか、ぺろっと軽く俺の鼻の下を舐めた。
嫌がらないとわかると、徐々に大胆になってくる。
俺の頬を熱い手で包んで、唇を寄せてくる。
ぬるっと舐められる、唇。
薄く開いたままだった口は、ヤツの舌でこじ開けられた。
ちゅくっと、小さな音。
唇を吸われ舐められ啄ばめられ、くらっと来た。
身を乗り出して押し倒してくる、男。
力の抜けた俺は、そのままベッドに倒れる。
視線の端で、薫さんが寂しげに笑ってそっと俺たちから離れようとした。
はん、そうはいくか。
手を伸ばした俺は、薫さんのスカートを掴む。
ぎゅっと強く握った。
それに気付いた薫さんが手を外そうとするが、俺は離さない。
今の俺の命綱だ。
何度も口付けをして俺の息を上げさせた男は、ゆっくりと身体を起こして薫さんを睨んだ。
「空気読めよ薫」
早く去れ、という意味だろう。
薫さんが微妙な表情で俺の手を見下ろした。
「それは智昭に言いなよ。僕だってこの場にいたくない」
しっかりと薫さんのスカートを掴んだ俺の手を、ヤツも見た。
「ともあきさん?」
首を傾げる男の下から、俺は力の入らなくなった身体を起こす。
そして薫さんの影に隠れた。
「変態」
貴様、俺になにするつもりだ。
「へんた......って、え?!ともあきさん、俺のこと受け入れてくれたんじゃないの?!」
そりゃあ俺だって、てめえのことは嫌いじゃねえ。というか、まあ、それなりにす、好きかもしれないけど。
「変態」
俺に何をするつもりだったんだ。全然身体に力入らないぞてめえ。
ぎゅうっと薫さんにしがみつく。
この人を逃したら、俺はどうなってしまうかわからない。
「ともあきさん......」
「......っはははは!和臣ダサい!!お預け食らった犬みたい!」
情けない声を出して俺を呼ぶヤツに、とうとう薫さんが笑い出した。
「うるせえなあ」
ちっと舌打ちをするが、その表情には覇気がない。
自分でも先走り過ぎたと理解しているんだろう。
そうだ。
俺のことは、もっと丁寧に扱え。
繊細な引きこもりなんだぞ俺は。
薫さんに背後から抱きついたままじっと見つめていると、コンビニ店員ははーっと大きくため息をついた。
そして、手を差し出してくる。
「ともあきさん、手」
何。
差し出された手と、ヤツの顔を交互に見る。
「薫から離れなくてもいいから、俺の手、もう一度握ってくれる?握るだけで、何もしないから」
「なあに、その甘やかしようは」
「黙ってろよ薫」
からかわれても、めげずにヤツは俺に手を出す。
俺は自分の手を見て、そしてそっと、上を向いた手の平に自分の手を重ねた。
熱い手の平。
俺の、大好きな手。
指が絡むとヤツに笑顔が戻った。
「ともあきさん、好き」
晴れやかな笑顔。
俺も笑顔を浮かべる。
「変態」
告げた言葉にショックそうな表情になるが、ヤツは俺の手を離さなかった。
俺も、強くぎゅうっと握ってやる。
こうして、俺は大事な手の温もりを取り戻すことが出来た。