2月-6


「......も、終わり?」
 前よりは動くようになったと言っても、そんなに体力のない俺はぜいぜいと肩で息をした。
 俺はいつの間にか、和臣をソファーに押し倒すようにして馬乗りになっている。
 和臣は俯いて、力の入らなくなった俺の手を、自分の胸元から外して服装を整えた。
「結構、力強くなったね。5月に殴られた時よりいてえよ」
 軽く笑って、和臣は肩をすくめた。
 俺が殴った場所は、赤くなっている。
 拳で固まっていた手を開いて、そっと頬に触れた。
 冷たい俺の手は、頬にある熱を奪う。
「あのさ。女の子はいいよ。可愛くて柔らかくて優しくて」
 顔を上げると、和臣はゆっくりと瞬きをして、俺を見つめた。
 わずかに寄る眉間の皺。
 しかめっ面しながら、和臣は俺に笑ってみせた。
 なんで、そんなこと言うの。
 目の前が、そこで初めて水分で揺れた。
「よく考えてみればさぁ、俺別に男が好きなわけじゃないし。なんていうか......俺だって、将来のことを考えたら、このまんまじゃいけないかなって考えたわけ。家族、にだって......紹介するわけにいかないしさあ」
 何度か変なところで区切りながら、無駄に明るい声でつらつら話す和臣。
 良く動く口が、俺にとっての棘を吐き出す。
 ぎゅっと目を閉じると、泣きたくないのに勝手に涙が零れ落ちた。
 その頬を、大きな手が軽く撫でる。
 あったかい手。
「俺ってモテるし。別に男が相手じゃなくたって、いいと思うんだよね。それにさ」
「別れる、のか」
 低い俺の声は、少しテンションの高い和臣の声を中断させた。
 音のない部屋。
 きん、とした耳鳴りが痛い。
 しばらくして、和臣が口を開いた。
「うん。俺のために別れてよ」
 あっけらかんとした、明るい声だった。
 驚いて見つめると、和臣は何が楽しいのか口元に笑みが浮かんでいる。
 ヤツの服を握って、俺の口元も無駄に歪んだ。
 身体の奥底で、ふつふつとした怒りが湧き上がる。
 でもそれ以上に、脳はキンと冷えているような気がした。
「ここ一年近く付き合ってきてわかったけど、智昭さん男前だし性格悪くもないし。笑顔でいて、もっと喋ったら、絶対女の子にモテるって。......あ。なんなら、紹介しようか?」
 顔を覗き込まれて、俺はわずかに身を引く。
 気分が悪かった。
 頭がくらくらする。
 こんな話を、しにきたんじゃないのに。
「俺がモテる?」
 どうにも反応できなくて、鸚鵡返しに呟くと、和臣は「うん」と頷く。
「付き合ってたから思うんだけど、あんたはなんか、普通に働いて、そこそこ可愛い奥さんもらうのが似合って。......それで幸せになれよ。そうすりゃ俺だって遠慮なく幸せになれるし」
 『付き合ってた』......なんで過去形なんだよ。
「手」
「え?」
「握れよ」
 手を伸ばして、俺はじっと反応を待つ。
 俺の手は、お前と繋がるために空いてる。
 手が冷えたんだから、早く、握って。
「ともあ......智昭さん」
 ぐっと和臣が起き上がった。
 バランスを崩しかけた俺は、和臣に支えられて何とか床に落ちるのを免れる。
「俺はね」
 眉間に皺を寄せて笑う。
 あざもあるせいで、男前が台無しだな。
 力強い腕に引き上げられながら、そう思った。
「もう、智昭さんの手、握らない」
 目の前が暗くなるというのは、こういうことを言うのだろうか。
 こんな、急に、別れ話になるなんて思ってなかった。
 温もりを得られなかった俺は、また力なく手を丸める。
「殴りたいなら、もっと殴っていいよ」
 俺の拳に気付いたのか、和臣はそういって自分の頬を指差した。
 感情に促されるままにとっさに出そうになる手を、もう片方で押さえて止める。
 殴ったって、どうにかなるもんじゃねえ。
 これで和臣が撤回するなら、あばらへし折ってやってもいいけど、絶対コイツは、自分の意見を曲げない。
 すると、和臣は一度視線を下に落とし、また顔を上げた。
「バイトも辞めたんだ。だからもう智昭さんの家の近くに行くことはないし。俺のことなんか、あんたもすぐにわすれ」
「知ってる」
「え?」
「バイトのこと、知ってる。今日は、それを聞きに来たんだ」
 そろそろと息を吸って、吐く。
 邪魔な水滴を手の甲で拭った。
 ゆっくりと立ち上がって、俺はソファーに座る和臣を見下ろす。
「帰る」
 くるっと背を向けて玄関に向かうと、和臣も立ち上がって付いてきた。
「バイクで送る」
「いらない」
 玄関に座り込んで、靴を履く。
 スニーカーの紐を縛るのに、指先が震えてうまく縛れない。
 内心舌打ちして、たて結びになったまま俺は立ち上がった。
 振り返ると、真後ろにいた和臣が一歩下がった。
 和臣の顔には表情はない。
「顔、冷やした方がいいぞ」
「......後で、やる」
 そっけなく低い声。
 なあ、そんな顔で女呼んだって引かれんの、自分でもわかってるくせに。
 ばかじゃねえ。つか、これが夢な気がしてきた。
 こんなだったら嫌だなって、寝ながら考えてるんだ。......うわ俺キモい。
 もう頭がくしゃぐしゃで、混乱しているのが、自分でもわかった。
 夢でもなんでもない。
 叫びたい胸の痛みや、泣いたせいで響くような頭痛が、まぎれもなく現実だということを俺に告げている。
 それでも。
 俺は和臣の言った通りに、にっこりと微笑んでやった。
「これなら、俺もモテるのか」
「......すごくいい、笑顔だと思うよ」
 そうか。......で、それからなんだって言ったんだっけ?
「もう少し、喋る努力もする。あとは、就職と結婚か」
 指折り上げて呟く。
「うん。......そう」
 ......嫌そうな顔してんじゃねえよ。
 お前が言ったことじゃねえか。
「かずおみ」
 俺が見上げると、和臣は俺を見つめ返してくれた。
 むすっとした表情。
 ばかじゃねえか。目が赤いぞ。
「最後にキス、しろ」
 ぴくっと、和臣の肩が揺れた。
 『最後』に反応したのか、『キス』に反応したのかわからない。
「目、閉じて」
 言われるままに目を閉じて、口付けを待つ。
「絶対、開けんなよ......」
 ぱたっと、何かが頬にあたった。
 それは俺の頬を滑り落ちていく。
 わずかに唇に感じる吐息。重なる、熱。
 愛してる。
 言いたいことはいっぱいあるけど、仕方ねえから、......俺が、この俺が、お前の意思を尊重してやる、よ。
 長いようで、短い交わりだった。
「これで終わり!じゃあなッ」
 やけくそになった、ぶっきらぼうな声と肩を掴む手に押されて、部屋を追い出される。
 俺が目を開けたときには、ドアが閉まりきった後だった。
 最後は、あっけなかった。
 呆けたままドアを見る。
 俺の頬を濡らす、水滴。
 指先で拭って、ぺろりと舐めた。

 それは胸の痛みを増徴させて、俺の涙腺を壊すほど、甘い涙だ。

 泣き喚きたいのを我慢して、俺はその場を後にした。


←Novel↑Top