2月-8
「デートだったんだがな」
留守電を残してから、1時間程で戻ってきた兄の第一声。
知らねえよ。嫌味ったらしく言うんじゃねえ。
玄関で俺と視線を合わせると、兄は目を細めた。
......目つきが、いつも以上に悪いのかもしれない。
俺は口元を歪めて、笑った。
「俺の部屋行こう」
兄は靴を脱ぐと、まっすぐ2階に上がる。
俺もその後に続いた。
「母さんは?」
「出かけた」
「そうか」
兄が戻ってくるまで緊張していたが、今は不思議と鼓動は落ち着いてる。
室内に入ると、兄はベッドに腰を下ろした。
俺は閉まったドアの前に立ったままだ。
「で、話ってなんだ。たいした用事じゃなかったら、ぶっ飛ばすぞ」
......けっ。予想はついてるくせに。
イラッと心が跳ねる。
だから俺は口を開いた。
「なんで、和臣殴った」
まっすぐ見据えて言ってやった。
てめえだろう。アイツ殴ったの。
すると兄は、ベッドヘッドの棚から灰皿を取り、ポケットからタバコを取り出して火をつけた。
深く吸い、ふうっと吐き出す。
暗くなってきた室内。明かりは、タバコの火だけ。
「わかんだろうが。理由ぐらい」
しばらく経って、昭宏は平然と告げた。
「わかんねえよ」
俺の方が、声が掠れてる。
「弟が男に襲われてたら、兄としては心穏やかじゃねえだろう」
......。
ぎゅうっと強く手を握る。
襲う?あれは、そんなんじゃねえ。見てれば、わかるはずだ。
昭宏と沙紀さんが寄り添ってんのと同じぐらいに、俺は普通に和臣といただけだ。
「弟がホモ、だと......彼女と、結婚しにくいか」
家族に同性愛者がいたら、嫌か。
だから殴ったんだろう、アイツのこと。
自分で告げた言葉に、俺は喉の奥が乾くような感覚を覚えた。
兄が、そんなことを思う人間なら、俺は軽蔑するだろう。
違うと拒否して欲しかった。
「......」
昭宏がのっそり立ち上がった。
咥えタバコのまま、俺の前に立つ。
怖い。
昔から、根付いた恐怖が浮き上がってくるが耐える。
ここで負けてたまるか。
「お前、馬鹿だから流されたんだろう。アイツは認めたぜ、遊びだってな」
ぽんっと頭を撫でられた。が、俺はすぐさまその手を跳ね除ける。
そして背伸びしながら昭宏の胸倉を掴んだ。
驚いた表情の昭宏。そりゃそうだ。俺がこうも、反抗したことはない。
「あぶな」
「遊びなんかじゃねえよ!本気だったんだ!」
てめえが勝手に決めつけんじゃねえよ......!
揺さ振ったことでタバコの灰が、火種を伴って俺に落ちてくる。
昭宏は、俺の顔にそれが当たる前に手の平で握り潰した。
そしてそのままその拳で、俺の頬を殴る。
「ッ」
俺は衝撃で床に倒れこむ。
あんまり力は入ってなかったに違いない。
昭宏が本気で殴ったら、俺なんかひとたまりもない。
咥えたタバコを灰皿に押し付けて消した昭宏は、俺を見下ろした。
「頭を冷やせ馬鹿。俺は本人から直接聞いたんだ」
「嘘だ!」
下から睨み上げると、髪を掴まれて引き上げられる。
黒い静かな瞳で、昭宏は俺を見つめた。
「こんなことで嘘ついてどうすんだよ」
「あんな、ぼこりやがって......」
「殴られて意見変えるようなヤツと、お前は付き合ってたのか。それならなおさら、やめとけ」
喉の奥で笑われて、ぎゅっと俺は唇を噛んだ。
「和臣は、そんなヤツじゃねえ......ッ」
絞り出した声は、頼りなかった。
そうだ。殴られたってそう簡単に意見を変えるような男じゃねえ。だから、てめえあんだけ殴ったんだろ。
2人が相対した場所を見たことがない俺は、推測するしかない。
殴って殴って、それでも諦めなかっただろう男に、昭宏は何を言ったんだ。
「......なんて言って、諦めさせた、んだ......」
髪を掴んでいた手を掴んで睨みつける。
そのときのことを思い出したのか、昭宏の眉間にわずかに皺が寄った。
「さあな。......けど、何が理由であれ、あの男はお前から手を引いたんだろう」
昭宏はそっけなく肩をすくめると、手を離した。
悔しくてやるせない。
俺はじっと昭宏を睨んだ。
目頭が、熱い。
「......さっき、別れてきた」
「そうか」
「でも、俺は、好きなんだ。......アイツを愛してる」
震える声。こんなこと、兄に言ったってしょうがない。
一番受け取ってもらいたい人には、もう届かない。
奥歯を噛んで、呼吸が止まりそうなほどの、鋭い心の痛みに耐えようと、堪らず俺は胸を押さえる。
すると黙っていた兄が近づいてきて、俺の身体を強く抱きしめてきた。
兄の腕がどこか、アイツの腕を連想させるように思う自分も、嫌で堪らない。
引き剥がしたくて、俺は手足をバタつかせた。
ぐっと顔を胸元に押し付けられてしまい、大きな背中に爪を立てる。
息苦しい。離しやがれ。
昭宏の足を蹴って、拳で背中を何度も殴る。
「離せ......離せよッ!......す、好きなのに......アイツが......好きな、だけなのに......ッ!!」
もう駄目だ。
箍が外れたように、俺はわあわあ泣いた。
男がみっともないとか言われるかと思ったが、兄は黙ったままだった。
散々暴れて、暴言を吐く。
嫌いだとも死ねとも言った。お前のせいでとか、八つ当たりもした。
ばかじゃねえのか俺。
こんなにぎゃあぎゃあ騒ぐぐらいなら、和臣に言えばいいのに。
別れるなんて嫌だって。ふざけんなって。
俺にはお前だけだって、言えばいい、のに......。
和臣が、全部覚悟したみたいな目で笑って告げたから、大人ぶって、全部受け止めたような態度とって。
......今になって後悔してる。
「離せよお!もう、い、いやだあッ!!......かず......ッ、かずお、み......!」
こんな、癇癪。ガキじゃあるまいし。......いや、俺はガキなんだろうな。
初恋で転んだからって、暴れるしか脳のないクソガキ。
騒いで手足をバタつかせて、兄の顔を殴ったり爪で引っかいたりもした。
それでも兄は、俺を離してくれなかった。
暴れる体力もなくなって、大声出しまくった俺の喉はひゅーひゅーと変な音を立てる。
力尽きてぐったりと凭れると、昭宏は無言で俺の背を撫でてくれた。
人の体温が心地よい。
『 ともあきさん 』
アイツに呼ばれる名前の、優しい響きを思い出した俺は、兄の胸で更に泣いた。
部屋の中はもう真っ暗だった。
母の帰ってきた気配はない。
俺が動かないからか、兄も動かないでいてくれた。
「なんで、昭宏、アイツの、バイト......あそこにしたの」
掠れてぼろぼろになった声で、俺は昭宏に尋ねた。
「......それは誰から聞いた」
「コンビニの、店長」
ぼそぼそとした答えに、昭宏が大きく舌打ちをした。
「俺が大学時代に、家庭教師のバイトをしていたのを知ってるな。......アイツはそのときの生徒だ」
「せいと......」
「知り合ったのは高校受験のときだ。結局、大学受験も面倒みてやったけど」
......そんなに長い付き合いだったのか。
知らなかった。
「で、バイトは?」
「......」
沈黙。
昭宏が黙ってしまったので、だるくなった足で兄の足を蹴る。蹴る。蹴る。
すると、逆に足を蹴られた。いてえ。
「お前が」
俺が。
「少しでも、外に出るきっかけが、出来ればと......」
また、沈黙。
意味がわからない。
アイツがバイトすると、どうして俺が外にで......。
『アイス好きなんだ?俺もそれ、買ってみようかな』
人懐っこく、笑みを浮かべたコンビニのレジの男が、脳裏にフラッシュバックされた。