7月-4
ピロリン。自己完結していた世界にそんな変な音が響いて、俺ははっとして視線をヤツから外した。
「送信、と」
気づかなかった。俺の前に、女がいた。
女は前の席に座って、俺の方を向いている。
思わず、俺はぽかんと口が開けていた。
黒髪の短い女だった。......ヤツの、友達の。
今日はワンピースではなく、薄水色のシャツに膝丈の黒いボトムを履いている。
どうして黒髪がここに?
「その顔も、いいわね」
女は携帯を俺に向けて、またピロリンと音を出す。
携帯のカメラ機能で、写真を撮っているのだとようやく気付いた。
「......なん」
「ちょっと待って。電話」
意味がわからず問いかけようとしたところで、女は言葉を遮って手にしていた携帯を耳に当てる。
「おつ~。あ、写真見た?......うん、綺麗に撮れてるでしょう?え、......どうしようかしら。そんなに教えて欲しい?」
ふふふと楽しそうに女は笑っている。
凝視する俺に気付くと、女はすらりとした指先で、窓の外を指差した。
指先を追って、外を見やる。
外には、電話を握って走りながら大学内に戻ってくる男。
もう会わないと決めたばかりの、コンビニ店員。
ヤツと、目が合った。
ガタン。
椅子を倒しながら俺は立ち上がる。
目はヤツから離せなかった。
ヤツも、俺を見たまま唇を動かす。
「俺が行くまで、捕まえといて」女の携帯からはそんな声が聞こえた。
......逃げないと。
俺はそんな焦燥感に駆られて、教室の出口に視線を向けた。
途端に腕に激痛。
「......な」
振り向けば、黒髪が俺のむき出しの二の腕を掴んでいた。
「ここ、ツボがあるの。ほら」
にっこり微笑んで、黒髪は指に力を入れる。
あでででで。いてぇなこんちくしょう!
それほど力を入れてなさそうなのに、広がる痛み。
痛みに耐性のない俺は、すぐに白旗を上げた。
「逃げない、から。離して」
意外に硬質な、平気そうな声が出た。
だが女、俺の顔をよく見ろ。目に溜まった涙に気付け。
じっと見つめたが、アピールが足りなかったらしい。
「あら、駄目よ。でまかせならいくらでも言えるもの」
小さな唇をキュッと真一文字に閉じ、黒髪はわざわざ、指の上に指を重ねて両手でかっちり握って押し出した。
ひぎゃああああ痛い痛いごめんなさい許してください助けて
相変わらず喋らない俺は、心の中で身悶えていた。
女から与えられる責め苦に、俺はもう瀕死状態。
いっぱいいっぱい過ぎて、これ以上なんかあったら、もうなんだかわかんないもんが漏れる。溢れる。滲み出る。
「薫」
乱れた息の合間から、誰かの名前。
女が晴れやかに笑った。
声は、俺の背後から聞こえた。
気配が、俺に近づいてくる。
ふ、振り向けない......。
「運動不足?そんなに息が切れるほどじゃないでしょ」
「うるせえ」
にゅっと、背後から伸びてきたがっしりとした手が、俺の腕を掴む。
女の手は離れていくが、俺は逃げることが出来なかった。
振り向くどころか、動くことすらままならない。
「この礼は、デート一回か学食一週間分奢りね」
「......学食3日分なら手を打とう」
「じゃあこの写真はあげない」
女は俺の顔の少し上に、携帯を掲げた。
ぽかんと口を開けた、俺の間抜け面が、携帯の画面に映し出されている。
いやいやいや、それいらねえだろう。
思わず突っ込みたくなったが、その前に俺の頭上から声が降ってきた。
「学食一週間分な」
それは、俺とヤツが物凄く傍にいる証。
少しでも背を曲げたら、ヤツとくっついてしまいそうで、俺はぎこちなく背を伸ばした。
耳元で聞こえる、まだ整っていない息遣い。
「デートでもいいのよ?」
目の前に立つ女は、軽く首を傾げた。
ヤツはチッと舌うちをして、携帯を取り出している。
「いいから、ほら赤外線」
「はいはい」
データのやり取りが続く。
キン、と金属音がした。
『そこ。授業が始まるぞ。席に着け』
マイクを持って話す教授が、俺たちを見ている。
周囲には、席についている学生たち。
ずっとやりとりを見られていたのかもしかして、と思うと顔が赤くなった。
「はい、すいません」
ヤツが声を張り上げた。意識が逸れたせいで、俺の腕を掴んでいた手が緩む。
よしチャンス!
俺はヤツの手を振り払って、出口に向かって走る。
......つもりが、何かに突っかかってズデンとこけた。
わずかに視線の端に入ったのは、すっと引っ込んだヤツの足。
......こいつ、俺を転ばせやがったな?!
瞬間的に沸騰した俺の脳は、ヤツを睨むように指示を出す。
ぎろっとした視線を向けて顔を見た途端、瞬時に俺の体温は氷点下まで下がりきった。
ははは......なんか、ちょー怖い顔、してる、んすけど......。
「あら、鼻血」
床にぶつけた鼻は、かっと熱かった。
周囲のくすくすと笑う声が聞こえる中、しゃがみ込んだ女が俺の鼻にハンカチを当てる。
清潔なお日様の匂いに鼻が包まれた。
『大丈夫か?』
見知らぬ教授にまで心配されて、俺は穴を掘って隠れたくなった。
「医務室に連れて行きます。お騒がせしました」
脇の下に手を入れて、ヤツが俺を引き上げる。
「気をつけてね。私、この授業の単位落とせないから付き合えないけど」
黒髪が、俺を見て両手を合わせる。
眉尻は申し訳なさそうに下がっているが、その口元に浮かんだ笑みはなんだ。
「ともあきさん、立って歩いて。......それとも、抱っこされて出て行きたい?」
耳元で低く囁かれ、俺はしゃきんと起き上がった。
周囲の誰とも視線を合わせないようにして、俺は教室を出て行く。
ヤツが、それに続いた。