9月-10


「はあ......」
 俺の小さな声が反響する。
 暖かな湯気に囲まれた浴室。
 ちゅぷんと浸かったお湯は、熱すぎず冷たすぎず丁度いい。
 じ、自分でいたせたのは良かったけど、あの野郎がトイレの前にいたせいで集中できなかった。
 見せろと言われたのを断った代わりに「じゃあいるぐらいならいいよね」とか言われて、閉めたドア越しに、その、恥ずかしい声とか、音とか、いっぱい、聞かれた気がする......。
 今思い出しても恥ずかしい。
 自慰は、あんまりしたことがなかったけど、あんなに声を堪えるのが大変だったことは今までなかった。
 俺、変態に釣られて変態になってるのかな......。
 浴槽の中から、桶に入れた洗ったパンツを見る。
 パンツの中は、やっぱり大変なことになっていた。
 な、なかというか、少し、ホント少し、外まで大変だった。
「ううう......」
 ぶくぶくと湯船に沈む俺。
 事が済んだのは良かったが、下半身の状態にどうしたらいいかわからないでいたら、コンビニ店員が風呂を勧めてくれた。
 勧められるままに風呂に入って、今現在こうしている。
 自分のことでいっぱいだった俺は、風呂に入った後に、ヤツが再度トイレに入って三度目の精を吐き出していたことを知らなかった。
 その間、俺は他の事に気を逸らしていたから。
「......」
 昭宏、心配、してるかな。
 俺はお湯の中で抱えていた膝を軽く撫でた。
 家を飛び出してきて、一度転んで出血した場所。
 今は止まっているけど俺はその傷を見て、兄を思い出していた。
 悔しくて許せなくて飛び出してきたけど、もしかしたら理由があったのかもしれない。
 横暴で自分本位でムカつくときも多いけど、あんなに怒った兄はあまり見たことがなかった。
 ざぶっと音を立てて、俺は立ち上がる。
 浴室を出て身体を拭いて、ヤツが用意してくれた服を着た。
 ヤツの服だから、袖が長いしジャージの裾も長い。
 まくりあげておこうかとも思ったが、面倒になってそのままずるずるさせて部屋に戻った。
 ヤツは、部屋でソファーに転がりながら雑誌を読んでいた。
 何気ない体勢も、こいつがやると様になりやがる。......けっ。
「風呂、ありがとうございました」
「どういたしまして」
 裾を掴んで引き摺りながら近づくと、起き上がったヤツが俺に対して手を広げてくる。
 一瞬躊躇したが、俺はその胸元にぽすっと抱きついた。
 抱きしめてくれるのが、気分が落ち着いて嬉しい。
 そっと上目遣いにコンビニ店員を見上げると、ヤツは目だけで微笑んでくれる。
 キスをちゅっと額と、頬と、唇に落とされた。
 甘いけど、深くない触れ合うだけのキス。
「じゃあ、寝ようか」
 もう遅いし、と言われて、俺はヤツと並んで歯を磨いて、一緒にベッドに入った。
 広いベッドを有効に使えと思われそうなぐらい、くっついて幸福感に包まれて寝た。



 筈だった。
「......」
 眠れない。
 暗い室内で、時計は見えない。
 けど、もう結構遅い時間だということはわかる。
 この部屋は高いところにあるから聞こえないかもしれないが、そろそろ早朝の新聞配達のバイクの音が聞こえてもおかしくない気がする。
 抱き締められて息苦しいとか、そんなんじゃない。
 俺は人の体温が好きだから、くっついてならすぐに寝れる方だ。
 でも、寝れない。疲れてもいるのに。
 兄のことが、気がかりだからだ。
 絶対心配してる。
 そのことを考えて、俺は眠れないのだ。
 少し、悲しくなった。
 せっかくこいつと二人きりでいるのに、こいつのことだけを考えられない自分が、嫌だ。
 思えば、今日ここに来たのだって、自棄になって飛び出してきて急に決めたことだ。
 さ、誘ったのだって俺だったのに、途中で怖がって、逃げ出した。
 ......自分の都合で、こいつを振り回して。
 俺って、最低?
 じわっと涙腺が滲みそうになって、俺は慌てて鼻を啜った。
「......寝れないの?」
 柔らかな優しい声。
 ヤツはもう寝ていると思っていたから、俺はその声に驚いた。
「緊張してる?......何もしないから大丈夫だよ」
「ちがう」
 否定するために咄嗟に出した声が、震えていた。
 これじゃあ、泣きそうなのばれる。
 はっとして手で口を押さえたが、それはもう後の祭りだった。
 男が起き上がって電気をつける。
 布団の中に潜って隠れた俺は、ヤツに引っ張り出されて腕の中に閉じ込められた。
 膝の上で抱っこまでされてる、俺。
「なんて顔してんの、ともあきさん」
 無理やり上を向かされて、困ったような表情で呟かれる。
「......俺は、お前のことだけ、考えていたいのに」
 咄嗟に出た言葉は、男を驚愕させたようだった。
「え、そりゃ、俺のことだけ考えてくれたら嬉しいけど......どうしたの、急に」
「あ、兄と......出てくる前に、喧嘩、して......そのことが、頭から離れない、んだ」
 俺はぼそぼそと事情を話し出した。
「喧嘩?」
「ん......」
 貰った名刺を兄に破られたこと。それに怒って飛び出してきたこと。その勢いで泊まりに来たことを告げる。
「い、勢いで来て、ごめん。あと俺も、......お前とシたいのに、ちゃんとできなくて、その、俺、自分勝手で......」
「ストップ。支離滅裂になってるよ、ともあきさん」
 俺の口を手で押さえると、眦を伝う涙を追うようにヤツがちゅっとキスをくれる。
「ともあきさんは、今お兄さんのことが気になってるんだ?」
「お、お前のことだけじゃなくて、ごめ」
「それはいいってば」
 言葉を遮られて、しゅんとしてしまう。
 俯いているとくすくすと笑い声が聞こえた。
「ともあきさんさあ、そんなに俺に嫌われたくない?」
 掛けられた言葉に驚いて見上げていると、ゆっくりとベッドに押し倒された。
「自分の心が俺に傾ききらないのを言い訳して泣き出すぐらい、嫌われたくないんだ。ふーん......」
 頬をゆっくりと撫でられる。
 あれ、なんか、いつもと違う?
 微笑みは一緒だけど、瞳の奥の鋭さが違った。
「すごく嬉しい。もっと俺に溺れて。......いいよ、最初は自棄になって、俺のうちに泊まりに来てたって。それが、お兄さんに対してのあてつけで、そのことを後悔してたって。......セックスのことだって」
 言いながら、男は俺のシャツのボタンを外して、首筋にキスを落とす。
 軽く吸い付かれて、甘い刺激をそこに感じた。寝る前に抱き合ってたときには、されたことのない行為。
「待つって、言ってるよね。したいと思ってくれてんのは嬉しいけど、俺は身体から丸め込んだりなんてしない。身体より先に、ともあきさんの心が欲しいんだ。......ともあきさんの心の中が、少しずつ俺で埋まっていくのを見るのは、ぞくぞくする」
 胸にも、ちくっとした刺激を与えられる。
 見下ろすと、赤い跡があった。......キスマーク?
 視線を上げると、喰われそうな強い眼差しで迎えられた。
「愛してる。......最終的に、俺を愛してくれればいいんです。だから今は無理しないでいいんだよ、ともあきさん」
 ふ、深い......。
 ちゅ、ちゅっと頬や肩や、いろんなところに口付けを受けながら、俺は思った。
「おまえ、って、いつから、俺のことすきなの......?」
 感情の温度差を許せるのって、わかってても簡単にできることじゃないと、思うんだけど。
 愛してくれるなら、同じぐらいに。もしくはそれ以上にって思うもんじゃないのか。
 ......自信ねえけど。
「それはねえ......秘密」
 ふにゃっと微笑まれた。
「知りたい」
 そんなに好かれる要素が、俺にあるとは思えない。
「ん?それなら俺も知りたいことがあるな。名刺なんて、どこで貰ったのともあきさん」
「え、あ、兄の会社の、倉庫で」
「なんでそんなとこに行ってんの?」
 ......。
 きょとんとしたヤツに問われて、俺は墓穴を掘ったことに気付いた。
 なんで、と言われましても......。
 良い言い訳が思い浮かばない。
 挙動不審になった俺に、ヤツはだんだんと訝しげになる。
「もしかして、ここ最近会えなかった理由って、それ?」
「......」
 俯こうとすると、顔を手で包まれて上げさせられた。
「働いてたり、する?......俺のため?」
 俺はきゅっと唇を結んだ。
 ば、ばれてしまっては仕方がない。
 顔を逸らしながら、小さく頷く。
「俺自身の、ためでもある、から......」
 恋人がいるのに、いつまでもニートでいらんねえだろ。
 ちらっと男の様子を伺うと、きつく抱き締められた。
 苦しくて身を捩ると、今度は深く口付けされる。
「朝、家まで送るよ。前に乗せたバイク、借りたままだからあるんだ」
 身体の力が抜けて寄りかかると、甘く囁かれる。
「ほんと?」
「うん。だから、今は安心して寝て。ね?」
「ん......」
 本当、俺は自分の都合の良いように生きている。
 今だって安心したら急に眠くなってきた。
 でも、一言だけ伝えたくて、俺は男に抱きつく。

「......すき」

 殆ど声が出なかったが、聞こえただろうか。
 ぎゅっと抱き締められて、俺はようやく眠りに落ちた。
 はぐらかされたことには気付かなかった。


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