9月-11
朝の目覚めは、なんか強烈だった。
息苦しくて目を覚ますと、コンビニ店員に口を塞がれていたのだ。
俺を殺す気かと殴ると、しぶしぶ離してくれた。
「寝てるともあきさんが、ちっちゃく口開いてんのが悪い。唇も柔らかいのが悪い。口に舌入れたら、それを舐めるのが悪い」
呟きながら、まるで子供が大事な人形を手放さないように、ヤツが俺を抱き上げてベッドから出る。
ううるせえ!そんなんしてねえよ!
「下ろせ」
顔が熱くなるのを感じながら睨むと、男は俺の言葉なんか聞いていないように頬擦りを仕掛けてきた。
「うわーともあきさんが朝からいるよ。俺マジ幸せ」
「やめろ」
もがくと、急に真顔になって俺を見た。
「そうだね。また俺が欲情したら困るしね」
そう言って、ぱっと離される。
......。
これはこれで、なんだか寂しい。
あっさり引かれて、俺は矛盾した気持ちを抱えてしまった。
軽く朝食を取り、服を着替える。
ヤツが昨日のうちに洗濯してくれたおかげで、俺はすっかり元通りだ。
全自動乾燥機付きの洗濯機なんて、1人暮らしにしては羨ましすぎる。
「じゃ、行こうっか」
二人でモーニングコーヒーを飲んで一息つくと、ヤツがバイクを出してくれた。
ヤツの背中に抱きついてバイクに揺られていると、さっさと家についてしまう。
電車で移動すると遠く感じるけど、意外に近いのかもしれない、そう思った。
家の前に横付けされて、降ろされる。
「じゃあ、また」
男は名残惜しそうに俺の髪をなでたが、去り際はさっぱり、振り返らずにバイクに乗って去ってしまった。
さて。
俺は、おそるおそる、家のドアを開けた。
そしてすぐに閉めた。
玄関には仁王立ちした、鬼がいた。
明らかに殺気立ってる兄だ。
心臓に悪すぎる。
が、一晩戻らなかった俺の責任だ。
俺もいい歳して、家を飛び出すなんてしたのが悪いのだ。
そしてふと昨晩の淫らな行為を思い出しかけて、俺は頭を振った。
今はそんな場合じゃないぞ俺。
覚悟を決めて、ドアを開ける。
がちゃ、と後ろ手でドアを閉めて、俺は兄を見上げた。
「ごめんなさい」
声が若干震えてしまったのは仕方ないと思う。
兄は冷ややかな眼差しで俺を見下ろしていた。
いつもにも増して、目つきが悪い。
目の下の隈が、兄の表情をより凶悪にしているのだと気付いて、俺は申し訳なく思った。
この分だと、やっぱり寝てねえんだろうな......。
びくびくと俺が怯えていると、兄ははあ、と大きくため息を付いた。
そして膝を付いて、俺に対して軽く手を広げる。
「お帰り」
「......ただいま」
そう答えても、抱きつけずにいると、腕を捕まれ引き寄せられた。
締められる。
そう思って目を閉じて、俺は身体を強張らせる。
だけど兄は ぎゅっと強く抱きしめて俺の頭を撫でただけだった。
その後は謝りはされなかったが、べたべたとセロハンテープで張り合わされた名刺を返された。
兄がどんな顔してこれを貼り合わせたか考えると、少しだけ笑えて、少しだけ泣きそうになった。
日曜はなぜか兄と一緒にパズルを作って過ごした。
いつものように外出してくれればいいのに。
そう思わなかったわけでもないけど、構われるのがほんの少しだけ嬉しかった。
そして月曜日は、また倉庫での作業。
「これよろしく」
「あ、はい」
作業も慣れて、会話も増えた。
やりやすい手順を教えてくれた女性は、平原さんというらしい。
彼女が俺に対して好意的に接してくれるため、他の人ともようやく打ち解けられた。
ただ1人だけ、栗林さんがとげとげしていて、少し雰囲気が悪くなることもあるが、それでも概ね良好に作業が出来ている。と思う。
迷惑をかけないために、俺は張り切って働いた。
「ともあきさん大丈夫?」
「んー......」
仕事が終われば、やっぱり疲れて眠い。
けど、ヤツに会いたいから今週は頑張った。
断らずに会いに行くが、一緒にいてもどうしても眠気に負けそうになる。
そんな時、コンビニ店員は俺を抱きしめてくれた。
公園の滑り台のトンネルで30分ぐらい抱きしめられながらまどろんで、それから最近は逆に家まで男に見送られる。
甘やかされてる気は、十分ある。
夕食には俺の好きなものが必ず一品は上がるし、兄だって最近はプロレス技をかけてこようとしない。
リビングでうとうとしかけると、大抵殴られて起こされるが、完全に寝入ってときは部屋に運んでくれたりもする。
優しい兄は、気持ち悪かった。
どこでどうしたのか、新しく高橋さんの名刺を手に入れてくれたらしく、俺の宝箱に入っていた。
新しい名刺が入っていたことも驚いたが、俺の宝箱のありかを知っていたことにも驚きだ。
宝箱といっても、ヤツと一緒に見た映画の半券とか、チョコボールのおもちゃの缶詰があたる銀のエンゼルが入ってたりする、ただの缶箱だ。
なにか気に入ったものがあると、俺はそこに入れている。
缶箱はとくにどこかに隠していたりするわけではないので、名刺を入れられても不思議ではないが、兄が俺のことで知らないことはないんじゃないかと思ってしまった。
セロハンテープで直された名刺と真新しい名刺を並べて、思わず考える。
箱に二枚の名刺を戻すと、俺は兄の所に行った。
「なんだ?」
リビングでアイスを食べている兄は、俺にちらりとした視線を向けた。
「名刺」
「あ?」
口にすると、途端に不機嫌そうな顔になる。
「昭宏の名刺、くれ」
「......」
手を差し出すと無視された。
ので、俺は兄のカバンを取って兄の前に座り込む。
それでじーっと見つめた。
「寝ろ。疲れてるんだろうが」
俺を見ないで兄が言う。
視線は手元の新聞に注がれている。
俺は兄には触れないが、無駄に近い距離で凝視した。
途端に、ちっと舌打ちされる。
「高橋の名刺とは、別のところにしまっておけよ」
仕方なく、といった表情で出された名刺。
俺は上機嫌で名刺を缶箱にしまった。昭宏の言うことなんて聞いてなかった。
優しい兄も悪くない。
翌日には母と父からも名刺を貰えて、俺のコレクションが増えた。
俺も名刺を持てたらいいな、なんて漠然に思うようになった。
「それでは今日までお仕事ご苦労様でした」
にっこりと笑って石岡さんが告げる。
バイトが始まって丸々二週間。
ようやく慣れたところで、俺のバイトが終わってしまった。
初めからそれほど長くないのは知っていたけれど、終わってしまうと不思議な感じだ。
ほやんと、ヤツの笑顔が脳裏に浮かぶ。
つい、顔が綻んでしまった。
喜ぶかなあいつ。
自分で貯めたお金でヤツにプレゼントが買えることが嬉しくて、俺は上機嫌で家に帰った。
給料は口座振り込みだった。
俺が大学に入る際に作った銀行の口座に入金されるよう、兄が手配してくれたらしい。
しばらく出し入れのされることのなかった通帳に、金額が刻まれているのを見たときは、なんだか感動した。
兄は、また元の暴君に戻っていた。
油断すると背後から締めてきたり、技をかけてきたりする。
逃げれば逃げるほど、楽しそうに俺を追い詰めてくるのがなお恐ろしい。
優しいのは期間限定だったみたいだ。......まあ、元の兄の方が、なんとなく落ち着く気がする。
ヤツの、誕生日プレゼントは、ずっと心に決めていたものを買った。
あとは本人に渡すだけ、だけど。