9月-6


 午後の作業は、女性がやり方を教えてくれたおかげで、前よりもずいぶんスピードアップした。
「やれば、できるじゃない」
 そっけなくだが、終了間際に栗林さんにそう言われて、俺は嬉しくてにこにこしてしまった。
 教えてくれた女性や、他の女性にも微笑まれて幸せになる。
 ここ数日、辛くて沈んでいた気持ちが嘘のよう。
 その日は、足に羽根が生えたのかってくらい軽い足取りで自転車を漕いで、家に帰った。
 明日は休みだ。
 そして今日はヤツのバイト日。
 やっぱり疲れて眠いけど、明日休みだし、夜久々に会いにいける。
 俺は機嫌よく時間になるのを待った。
「今日は、ずいぶんと機嫌よさそうじゃねえか」
 俺が出る少し前、兄が帰ってきた。
「おかえりなさい」
 と、いつものようにハグしただけなのに、兄には気づかれている。
 ふふん。俺にだってやれば出来るんだ。
 にやにやしてると「気持ち悪い」と殴られた。
 地味に痛い。
 背広を脱いでいる兄に、俺はビールやらつまみやらを用意する。
 母はもう寝ていた。この尊大魔王は自分で用意するはずがないから、結局俺が準備をする羽目になる。
 一息ついている兄を横目に、そろそろ出ないと間に合わない時間だと気付いた俺は、玄関に向かおうとした。
 が、昼間あったことを兄にも教えてやろうと思い直して、リビングに戻ってソファーに座る兄の隣に腰を下ろす。
「急がなくていいのか」
 俺が夜出かけることをあまり容認していない兄も、最近は許してくれる。
 近寄った俺に、不思議そうに一瞥を向けた。
「昼間、名刺もらった」
 にこにこと告げると、ビールジョッキを傾ける兄の動きが止まった。
「......誰に?」
 普段の兄より声が低い。
 だが、浮かれていた俺はそれに気付かなかった。
 ジーンズのポケットの中に突っ込んでいた名刺を引っ張り出して、何度も見返していた名刺の肩書きと名前を読み上げる。
「----株式会社、本店、営業部特課、課長、たかは......」
 全て言い切る前に、俺の手にしていた名刺が引き抜かれた。
 取ったのは、兄だ。
 何をする、と言う前に、俺の目の前で取られた名刺が破られる。
「ッ......のやろう、嫌がらせか!」
 兄は、激昂しているようだった。
 破った名刺をゴミ箱に入れて、ビールをぐいっと煽る。
「いったいどこで知ったんだ?総務には口止めしたのに。......石岡か?」
 苛立った兄はぶつぶつと呟いているが、そんなの俺には関係ない。
 ぎゅっと握った拳で、俺は兄の肩を殴った。
 驚いた表情の兄が、俺を見る。
「智昭」
 俺が貰ったのに。なんでてめえが破るんだよッ。
 嫌がらせって、何。
 俺が名刺を貰ったら、なんで昭宏に対して嫌がらせしたことになんだよ。
 昭宏の会社で俺がバイトしたら、駄目なのか?!
 何度も殴る俺の手を、兄が手で包む。
「智昭、聞け。あのな、」
「聞かない!」
 俺は兄を押しのけて、リビングを飛び出す。
「帰らないから」
「待て智昭!」
 追いかけてくる気配があったが、振り返らなかった。
 家を飛び出して、ヤツのいるコンビニに向かう。
 一度転んだ。
 ジーンズの中でじわっと膝が擦り切れたような感覚はあるが、見ている暇はない。
 起きて走って、ほっとするコンビニの明かりが見えるところで、俺はようやく足を止めた。
 運動不足と、疲労がたまった身体に全速力は辛い。
 壁に手を付いて肩で息をしていると、コンビニの外に人影が見えた。
 10時は、もうとっくに過ぎている。
 人影に向かって、俺はまた足を動かした。
「ともあきさ......んっ?!」
 久々に会える喜びなのか、弾んだ声で名を呼んだ男は、俺にタックルを食らって倒れこんだ。
「ったぁ......そんなに俺に会いたかった?」
 ぎゅうぎゅう抱きついて、顔を埋める。
「抱きしめてくれんのは嬉しいんだけど、俺立ちたいなあ、なんて......」
 俺の頭を撫でて、男が笑う。
 優しい笑顔。それを見て俺の心がきゅっと締め付けられる。
 ずっとほったらかしにしてたのに、こいつは前と全然変わらない表情だ。
 そんなヤツに、俺は胸に顔を埋めたまま口を開いた。
「今日」
「ん、何?」
「今日、泊まるから」
「......は?」
 俺は顔を上げて、じっとコンビニ店員を見つめた。
「泊めて、お前んち」
 密着したヤツの心臓の音が、急に跳ね上がった気がした。


←Novel↑Top