花嫁の歌声-11



 何もなかった水面に波紋が広がる。
 さざ波に導かれるように、ラフィタはうっすらと目を開いた。
 周囲は暗く日の光は入ってこない。ところどころに浮かぶ明かりだけでは、鳥目のラフィタは周囲を全て見ることができなかった。
「......?」
 夢魔に与えられた眠りが、朝にならずに途切れてしまうことがあるのだろうか。
「よぉ起きたか」
 何度か瞬きするラフィタに、軽やかな声がかけられた。
「ジェラルド......?」
 視線を向ければ、ジェラルドがシーツから上半身だけ出し、肘をついて顔を手で支えている。
 ジェラルドは夢魔と呼ばれる種族の魔物だった。夢魔は基本的に人や魔族の夢を渡り歩き、覚醒している時に会うことは殆どない。
 ただ、ジェラルドは毛色が違うらしく、生身を晒しホアンとともに湖に暮らしていた。
 濃藍色の長い髪を首の後ろで一つに縛り、透き通るような白い肌と長めの前髪から覗く少しつりあがった目は蠱惑的な少年である。
 見た目が人と変わりないように見えるのは、彼らが人間の夢を好むからだとラフィタは聞いたことがあった。
 ジェラルドはラフィタと視線が合うとにっこりと笑い、フェリックスの髪の一房を摘んで軽く口付ける。
 暗がりで見えにくい中、それを目撃したラフィタはむっと口をへの字に曲げた。
「ジェラルド、ちょっとフェリに触んないで」
 嫉妬を隠そうともせずに、口を尖らせるラフィタにジェラルドは声なく笑った。
「悪かったよ。お前の旦那様だもんな」
「そうだよ。既婚者にそんな触り方しないもんなの」
「はいはい。じゃあ旦那様に触ってよろしいですか奥方」
 からかいを含んだ声に首を振りかけたラフィタの耳に、小さく呻くフェリックスの声が聞こえた。
「フェリ?......ッ」
 上半身を起こしてフェリックスの顔を覗き込みたいが、身体を捩った途端に足に走った痛みにラフィタは息を飲んだ。
「ッ......っは、......」
 それでも大事な伴侶の苦しむ横顔を見て、ラフィタは必死に呼びかける。
「フェリ!フェリ大丈夫?!起きて!」
「寝かせてやれって」
 ジェラルドは切羽詰ったラフィタを落ち着かせるように声をかけると、フェリックスの目を手でった。
 すると呻き声はなくなり、静かな寝息に変わった。ジェラルドが手を退けると、穏やかな寝顔が見える。
「よかった......ありがとうジェラルド」
「礼を言うのは早いんじゃねえの」
「......え?」
 首を傾げたラフィタを見て、ジェラルドは唇を歪めた。
 フェリックスの額に手を当てると、そのままずぶずぶと指を沈め始めた。
「な、なにしてんの?」
「お前にやった『珠』を取ってるんだ。こいつに使ったんだろ」
「う、うん......」
 戸惑いながらラフィタは頷く。額に入っていく指を見るというのは、あまり気持ちのいいものではない。
 寝ているフェリックスの表情が変わらないのでラフィタは無言で見守っているが、もし苦しむようなら『風』でジェラルドを吹き飛ばしてやろうとも思っていた。
「ん、あった」
 探るように指を動かしていたジェラルドは何かを掴むと、指をゆっくりと引き抜いた。
「ほら」
 鳥目のラフィタにも見やすいように明かりを増やし、ジェラルドは『珠』をかざす。
 ラフィタはそれを見て顔をしかめた。最初にもらったときは虹色に変化する綺麗な水球だったのに、今は真っ黒な球体になっていたのだ。
「短期間の割に黒くなったな」
「なに、それ......」
 驚いた表情でその球体を見つめるラフィタの顔を覗き込むと、ジェラルドはにやりと笑う。
「『珠』はこいつの悪夢の塊を吸い込んだのさ。人間でこんなに悪夢を持ってるやつなんて、そうそういねえよなあ。普通ここまでいったら死んでるって」
 手の中で転がすとジェラルドはぱくんとその球体を飲み込む。それから顔をしかめた。
「うーわー......さすがにこれだけ黒いと苦くてまじい。......あーなっるほどおー......んな体験してんのか」
「どゆ......こと?」
「ん?だから悪夢の塊だって......」
「違う!死んでるって、どういうこと?それが黒いと、フェリックス死んじゃうの......?体験ってなに?」
 カタカタと震えて涙を溜めるラフィタに、ジェラルドは目を細めた。
「夢は、記憶の再生と思考で出来てる。まあ本人の『無意識に気にしてること』を反映しやすいもんなんだよ。んでこいつの夢は」
 ジェラルドは一旦区切ると、とんとんと指先でフェリックスの額を叩いた。
「過去を基盤とした自己嫌悪の悪夢で構成されてる。これだけ自分で追い詰めてたら、自殺だってありうるだろうな」
「そん、な......」
 夢魔のジェラルドの言葉に、ラフィタは血の気を失っていた。
 空島から飛び降りようとした時のあの晴れやかな笑顔。それとは対照的に、生きていると知ったときの絶望を持った瞳。
 そんなにフェリックスが苦しんでいるとは、ラフィタは知らなかった。
「どう、して......なんで?なんで、そんなにフェリックスは苦しんでるの......?」
 今は穏やかに眠りに落ちているフェリックスを見つめて、ラフィタは声を震わせる。
 視界が涙で歪み、そのせいでより一層フェリックスが苦しんでいるように見えた。
「んー......説明すんのもめんどくせえや。直接『見ろ』よ」
 肩を竦めると、ジェラルドはラフィタに覆いかぶさってきた。
 髪と同じ濃藍の瞳が迫り、唇を奪われる。
「んんんっ?!」
 身を捩るが、両手のないラフィタはろくに抵抗も出来ない。さらに口を塞がれては『風』も呼べないのだ。
 ラフィタは強い眼差しでジェラルドを睨み、唇を割った舌に噛み付いて歯を立てる。
 痛みに怯むかと思いきや、鼻で笑ったジェラルドがラフィタの口に何かを押し込んだ。
「んぐっ」
 それは大きすぎて喉に詰まる。
 唇を離したジェラルドが指でそれをぐいぐい押し込んできた。
「ほら飲み込め。悪夢の珠だ。飲み込まなきゃ、旦那様の悪夢の全貌が見えねえぞ」
「ぐぅ......!」
 涙目のままラフィタはジェラルドを睨んだ。
 無理やりキスしたことといい、押し込むガサツさといい、ラフィタの神経を逆なでる。
 それでいて心底楽しそうな表情なのがより腹が立つ。
 吐き気と戦いながら、ラフィタはその球体を飲み込むために懸命に喉を開いた。
 喉の奥まで入り込んだところで、球体は急にどろりとした液体に形を変える。
 苦味を伴ったそれをごくんと飲み干す。喉に絡んでラフィタは苦しげにむせた。
「飲んだな。よし、じゃあ見せてやるから」
 ジェラルドがほっそりとした手でラフィタの目を覆う。
 視界が暗くなった、と思った瞬間に身体がふわりと浮き上がるような感覚に包まれた。
 ぱちりと瞬きをすると、暗がりの中にぼんやりと景色が浮かびあがる。
 それはみるみるうちに鮮明になり、白い石で出来た壁の廊下が見えた。
 ラフィタはいつのまにか一人でその廊下に立っていたが、それが幻影の類だとはすぐに気づいた。
 意識を集中させれば、横たわったシーツの感触を感じることもできるし、逆に足は地面を踏みしめている感覚がない。
 怪我したはずの足も痛みがなかった。
『これがお前の旦那様の夢ん中だ。これからお前はその悪夢を体験することになる。......まあ、覚悟しとけ。最後まで見きれなかったら俺を呼ぶといい』
「ジェラルド?」
 どこからともなく聞こえてくる声にラフィタは周囲を探すが、ジェラルドの姿はなかった。
「もう......」
 ラフィタは肩を竦めると、人気のない廊下を歩き始めた。
 壁に施された細工はとても細かいもので、この廊下がどこかの高貴な場所だということを示している。だが天井との境目にはくもの巣が張り、手入れを怠っているのか埃が溜まっている。
「ここってどこなんだろ」
 見たことのない景色に、ラフィタは首を傾げた。
 これがフェリックスの夢だというなら、どこかにフェリックスがいるはず。
 まずは愛しい人を探そうとラフィタは廊下を駆け出していた。


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