花嫁の歌声-12



「フェリー、フェリックスどこー?」
 ぺたぺたと素足で歩き回るが、フェリックスには会えない。何度も角を曲がったが、迷路のように入り組んでいて何処かにたどり着くことはなかった。
 更に、ドアがあってもラフィタには開けない。足で器用にノックしてみても返事がないので、中には誰もいないと思って進むことにしている。
 物凄く広いのだ。
 同じような風景ばかりでちゃんと進めているかわからなくなる。
 夢の中というのであれば、もっと都合がよくていいのに、とラフィタはぷくっと頬を膨らます。
 ラフィタの場合、寝ても覚めてもフェリックス一色だ。夢では笑顔で笑ってくれるフェリックスを良く見る。
「フェリックスーッ!」
 見回るのも飽きてきたラフィタは、すうっと息を吸い込んで大きな声で愛しの旦那様を呼びかけた。
 魔力を含んだ声は、風と混ざって遠くまで響いていく。
 夢でも魔法を使えることに少しだけ気分を良くしたラフィタは、いくつめか角を曲がって動きを止めた。
 ずっと続くかと思われた廊下が終わり、手すりとその先に生い茂る木々が見えた。
 とてとて、とその手すりまで歩くとラフィタは目を見開く。
 そこはどうやら中庭のようだった。手入れがされていない縦横無尽に伸びた枝や、花が枯れた跡のある花壇。中央には仰々しい噴水がある。その噴水の側に小さな子供が立っていた。
 ぱっちりとした黒い瞳に、さらさらの黒髪。身に付けているものは、人間では高貴だと言われている紫を彩られた衣服。
 記憶の何処かで、引っかかるその服装。
「フェリッ!」
 間違いない。最初に出合った頃のフェリックスが、そこには立っていた。
 出会えた興奮でラフィタは頬を上気させて、その中庭に飛び出した。
 今は自分より小さいフェリックスに横から抱きつく。小さな身体はよろめいたが、ラフィタに気づいた様子はなかった。
「フェリ、フェリ!」
 本能の趣くまま呼びかけて、じっと自分に向けようとしない顔を横から覗き込むとちゅっと唇を重ねた。
 虚ろだった黒曜の瞳が、何度か瞬きを繰り返して意思のある眼差しとなっていく。
 自分を捕らえるその視線にラフィタは嬉しくなって、ぐりぐりと身体を押し付けた。。
「ラフィ、タ......?」
「うん......!」
 ひと時も離れたことがない相手なのに、久しぶりに触れ合った気がしてじわりと目頭が熱くなった。
 ラフィタを抱きとめたままのフェリックスは、呆然としているようで動きが鈍い。
 どうしたのだろうとキョトンとしていると、視線の端に動く存在があることに気づいた。
 フェリックスの目の前に赤茶けた髪の子供が膝を付いている。そのフェリックスよりも更に小さい男児を見て、ラフィタはぎょっとした。
 ラフィタを訝しげ見上げてくるその瞳は、一つは空洞となっている。腕の関節は変に曲がり、身に付けているものは服とはいえないほどぼろぼろになった布切れで、露になった肌は多くが紫や黄色に変色していた。
「き、君大丈夫?!」
 慌てたラフィタが膝を付きかけると、細い胴体をフェリックスが腕で抱き上げた。
 そのまま、フェリックスは鋭い眼差しでラフィタが出てきた廊下の奥を睨みつけている。釣られて視線を向けると薄暗くなっていてなんだか嫌な感覚にラフィタの毛がぶわっと逆立った。

「フェリックス!」

 廊下から大きな声が響いた。
 それはラフィタが魔法を使って拡大させた声よりも大きく、鼓膜がびりびりと痺れる。
 フェリックスはラフィタを抱き上げたまま、よたよたと噴水から離れて植木の奥の目立たないところにラフィタを下ろした。
「フェリ、今の声って......」
「黙って隠れてて、陛下に見つかったら殺されてしまう」
 へいか。
 脳内に角を生やした鬼族の温和な顔が思い浮かんだが、彼は理由もなしに命を奪うことはしない。
 首を傾げていると、ほんのりと頬を上気させたフェリがラフィタの両頬を手で包んで優しくキスをした。
 切なそうに細められた瞳が、悲しみに濡れている。
「どうして夢の中から君が出てきているかわからないけど......どんなことをしても、私が守るから」
 とんっとラフィタの肩を押す。軽やかに押されたつもりだったのに、ラフィタは仰向けに倒れてしまっていた。
「ゆ、夢の中って......」
 ここが夢の中なのにおかしなことを言うことだと、もそもそとうつ伏せになって枝の下からフェリックスに視線を向けたラフィタはその場の雰囲気に息を飲む。
 廊下の置くからゆらりと出てきたのは、金の王冠を頂きにおく黒髪の長身の男だった。
 目元はくぼみ、頬はこけている。年齢はわからないが少なくとも人の歳で40歳は越えているようだった。手には金のライオン頭が付いた杖を持ち、複雑な金の刺繍の施された紫の服を着ている。重厚で威圧的な雰囲気を持つ男だった。
 フェリックスは片膝をついて、頭を垂れている。すぐ側にいた赤茶色の髪の子供は地面に額を擦りつけてひたすら身を小さくしているようだった。
「フェリックス。誰かがお前を呼んでいたようだが」
 声を聞いて、ラフィタは声を上げそうになった。成人となったフェリックスの声と驚くほどに似ている。よくよく見れば、面影をその表情から見つけることが出来た。
 フェリックスの、お父さんだ。
 何も証拠はないのに、ラフィタはそう確信していた。
「......この奴隷が」
 顔を上げもせずにフェリックスは側にいた子供を指差す。
 子供は驚いたようにフェリックスを見、それから男性を見上げてがくがくと首を横に振った。
 その表情は恐怖と絶望に彩られている。
「ち、ちが......っ」
「薄汚い口を開くんじゃない豚が」
 フェリックスは無表情のまま、怯えた子供の肩を、強く、蹴り上げた。
 仰向けに倒れた子供の顔面を二、三回手加減もせずに踏みつける。潰れた酷い声がラフィタの元にも届いた。
 止めなければ。
 そう思うのに体が動かない。がくがくと体が震える。
 男児に暴力を振るうフェリックスが怖かった。
 フェリックスの足がボールを蹴るように子供の頭を蹴り上げた。吹き飛ぶ子供を見て、ラフィタの喉から悲鳴が上がりそうになった。
 それを塞いだのは、産毛のままの小さな羽根だった。
 手がないラフィタは、自分の羽根の先を噛んで声を漏らすのを防いだのだ。
 夢の中のはずなのに羽根に痛みが走ることを、頭のどこかで不思議に思う自分がいる。
 男児は地面に転がったままぴくりとも動かない。命が抜けた、モノになった瞬間を見た気がした。
 フェリックスは肩で息をしながら、その男児を睨みつけている。と、そのフェリックスの姿が消えた。
 すぐ側の噴水に水柱が走り、そこにフェリックスが落ちたことに気づく。
 男が手にしていた杖で、フェリックスを噴水に突き落としたのだ。
「が......っふ、がぼ......!」
 バシャバシャと水が跳ねる。顔を出そうとしたフェリックスの頭を、男は杖で突いて沈めた。
「我に連なる者が、下賎な生き物に名を許すなど言語道断」
 男は酷く淡々としていた。フェリックスが溺れて暴れる様を見下ろす瞳は、その冷淡で恐怖心を掻き立てる。
「お前は人間だろう。家畜の扱いを間違えるな」
「もぅ......し、わけ......ゲホッ」
 水の中のフェリックスの動きが徐々に鈍くなる。散々突いていた男は、その謝罪を受け入れたのか、それともただ飽きたのか、男は手を止めるとふらりとまた城内に消えていく。
 その姿が完全にいなくなっても、ラフィタは動けなかった。
 ざばっ。
 水の跳ねる音が聞こえ、噴水の縁にフェリックスの上半身が上がる。
「フェリックス......!」
 ラフィタは弾かれたようにフェリックスに駆け寄った。
 夢の中でさえも手がないラフィタは、フェリックスを抱き起こして引き上げることも出来ない。
「......目、開けてぇ......!」
 薄い呼吸を繰り返していたフェリックスは、ラフィタの要望に応えてうっすらと目を開けた。
「ラフ......」
 最後の力を振り絞って、起き上がったフェリックスはそのまま地面に倒れこむ。
 何度もむせ込んで水を吐いた。


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