花嫁の歌声-13



「なんで、こんな......」
 どうしてこんな酷い夢を見ているのだろう。
 ぼろぼろと涙を零すラフィタを見つめて、横たわったままフェリックスはゆっくりと手を伸ばす。
 ラフィタの頬を手が触れた。優しく撫でる手の平は子供のものにしては大きい。
 ふっと見上げると、成長したフェリックスがそこに膝をついていた。
「ふぇり......」
「羽根に血が滲んでいます。大丈夫ですか?」
 慈しむように目を細めたフェリックスは、ラフィタが噛んで傷つけた羽根の先端にそっと口付けを落とした。
「どうして貴方がここにいるかわかりませんが......ここは危ない。早くあちらから外に出てください」
 フェリックスが指差す先に、そびえ立つ石壁と大きな扉がある。その扉が音もなく開いた。
 その外には高原が広がり、二人で住む小さな小屋が見える。
 薄暗く鈍い空が広がる扉の内側とは違い、青く澄み切った空と風に揺れる白い花があった。
「さあ」
「......フェリも一緒に行こう」
 こんなところ、一緒に抜け出そう。
 そう誘うラフィタの目の前でフェリックスの首に重く無機質な首輪が付いた。太く重い鎖がじゃらりと音を立てる。
「見てください」
 フェリックスは自分の両手をラフィタに差し出した。その手の平は、いつのまにか赤黒く濡れていた。とろりと滴り落ちる粘度を含んだそれはまさしく血で、ラフィタは思わず後ずさってしまう。
「貴方は私を救ってくれた。ありがとうございます。でも、私は貴方の側にいてはいけないんです。ごめんなさい」
 そういって微笑んだフェリックスは、何もかも諦めた空虚を抱いていた。
 手首や足にも重く戒める拘束具がつき、鎖が真っ暗になった建物の中に伸びている。
「あの私は、浅ましくも貴方のそばにいる。......とても、幸せな夢でした......」
 穏やかな表情で深く息を吐いたフェリックスは、まるでその『夢』を抱いているかのように胸を手で押さえる。
「あんなこと、あるわけないのに。愚かで浅慮な私は、貴方のお世話をすることが嬉しくて、貴方がしたいことを全部取り上げた。羽根を毟っているのと同じだ。更にあんな、怪我をさせて......」
 ぽろぽろと涙が落ちてくる。フェリックスの涙は、ラフィタに当たると光になって跡形もなく消えた。
「夢の中に戻ったら私を捨ててください。そしてあの空に、お戻りになってください。お願いします。お願いします......!」
 それは酷い懇願だった。
 ラフィタは青ざめたまま、必死で首を横に振る。
 けれど、それがまるで、自分本意のエゴのように思えて、ラフィタは苦しかった。
「......僕は、フェリックスと一緒にいたいだけなだよ......」
「私といても、ラフィタは不幸になるだけだよ」
 すぐ側から幼い声が聞こえて驚くと、小さいフェリックスが立っていた。
 鎖に拘束されるフェリックスを見る眼差しは冷ややかだが、ラフィタと目が合うとにっこりと微笑まれる。
 ラフィタは小さい頃のフェリックスの笑顔をはじめて見た。見惚れていると、その顔が強張った。

「その生き物はなんだ?」

 真っ黒に塗りつぶされてもはや建物の原型が留めてない中から、声が聞こえる。
 姿を現したのは、さっきの王冠の男だ。見るだけで恐怖感が煽られて、汗が吹き出る。
 怖い、と思うのはラフィタだけではなく、二人いるフェリックスも顔を青ざめさせていた。
「ラフィタ、走ってください!」
「私が見送るから、ほら!」
「え、ちょっ」
 小さなフェリックスにむりやりに向きを変えられて、腰をぐいぐいと押された。
「フェリッ!」
「愛しています。貴方が幸せになることを、心からお祈りしております」
 フェリックスが目を閉じてうっとりと呟いた。その側頭部を杖が風を切って殴り倒す。
「気持ち悪いことを言うな。愚か者め」
 男が、滅んだはずの人間の王が、成長したフェリックスの身体を杖で打ちつけていた。
「フェリッ!」
「駄目だよ! さあ早く出て......!」
 駆け寄ろうとするラフィタを、小さなフェリックスが必死で押さえ込んで扉に向かわせる。
 その力は強く、さらに小さいフェリックスも『フェリックス』に相違ない。だから魔法で乱雑に扱うことも出来なかった。
 ラフィタの最愛の麗人は、抵抗することもなく増えた鎖に拘束されて白い肌を自らの血で赤く染め上げていた。
「その魔族を連れて来い」
 低い声で命じる男に怯えながら、小さなフェリックスは背中でラフィタを守るように睨み付ける。
「ラフィタには手を出させない!」
「フェリ......フェリ、もう止めて。これは夢なんだよ? フェリックスが見てる、悪い夢だ。僕と一緒に外に出ようよ」
「それは駄目なんだよ」
 留まろうとしているラフィタの身体が、フェリックスの背に押されて扉の外に出て行く。
 ラフィタを引き渡そうとしないフェリックスに苛立ったのか、男が足を踏み鳴らして近づいてきた。
 それに気づいたフェリックスは、ラフィタの身体を外へと突き出す。倒れこんだラフィタを優しい香りのする花が包み込んでくれた。
「フェリ!」
 すぐに身を起こすが、フェリックスは外開きに開いた扉を閉めている最中だった。
「待って、閉めないで!!」
 駆け寄ってその隙間に体当たりをするが、幅は狭く中に入ることは適わない。
 小さな手が柔らかなラフィタの羽根を撫でた。
「ふわふわして、気持ちいいね......」
 触りたかったのだと言っていた空での告白が脳に甦る。
「ふぇりぃ......!」
 閉じていく扉の隙間から、幼いフェリックスの細い腕を人間の王が掴むのが見えた。フェリックスは怯えて悲鳴を上げるが、扉を閉じることを止めようとしない。
 更にその奥には、何人も何人も黒い亡霊のような影が現れて愛しい人を飲み込んでいった。
 幼いフェリックスも、杖を何度も打ちつけられてごぼりと血を吐くのが見える。
 こんな壁があるから、僕はフェリックスから引き離される。
「いやだぁっ!!」
『それは駄目だラフィタ!』
 叫んだラフィタに呼応した風が、扉を破ろうと吹き荒れた瞬間。

 ラフィタは現実に引き戻されていた。

「っ~......!!」
 びくんと痙攣した身体はすぐに硬く強張り、ラフィタの瞳からは熱い涙が流れ落ちた。
 上手く呼吸できないまま天井を見上げていたラフィタは、自分がベッドに寝かされていることを知覚する。
 戻ってきた。
 戻ってきて、しまった。
 あんな、人を傷つけるだけの壁の中に、フェリックスだけを残して、自分だけ。
 あんな寂しいところに......!
「壁はお前の旦那様の心の一部だ。壊したら二度と目を覚まさない」
 強く奥歯を噛み締めるラフィタの顔を、気の毒そうにジェラルドが覗き込んでいた。
「今のが、フェリの、夢......?」
 血の匂いも、風の質感も、優しく触れたフェリックスの手の感触も、夢であることが嘘のように生々しく感じられた。
「ああ」
 ジェラルドはゆっくりと優しくラフィタの頭を撫でて、汗を拭う。
「この男は人間を、同族を殺している。だから夢でも殺すし、その原因になった人間の王が心に住んだままなんだ。血は赤く、絶望は深く、恐怖は根強く残ってる」
 高貴で在ろうとした子供。人間の役に立って死ねるのならと、晴れやかに笑った笑顔。生きていることを後悔した、地上での目覚め。
「う、ぅううう~......っ」
 堪えきれない嗚咽が漏れてしまう。隣で寝ているフェリックスのことを思うと、やるせなかった。
 うつ伏せになって枕で声を押しつぶす。
 男と同じように振る舞い、他者を傷つけることでしか生きられなかった。
 そんなの、フェリックスは望んでいなかったのに。
 涙が止まらなかった。
 ジェラルドはどこか痛ましい表情でラフィタを見つめていたが、やがてなにかを振り切るように一度強く目を閉じるとどこかいびつな笑みを浮かべながら口を開く。
「旦那様を楽にしてやる方法があるぜ」
 咽び泣くラフィタに、ジェラルドは小さく甘く囁いた。


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