花嫁の歌声-14



「お前には言ってなかったけどな、俺は夢魔ん中でも特殊なんだ。主食が人の記憶、でね」
 ジェラルドの言葉が、すぐに耳には入ってこなかった。
 だが徐々にその意味が深く心に入り込んでくる。
 時折ひっく、と横隔膜を震わせながら、どうにか泣き止んだラフィタは上半身を起こした。
「俺がこいつの記憶、食ってやる」
 ラフィタの赤い瞳が自分に向いたところで、ジェラルドはフェリックスの頭に手をかざす。
「旦那様の悪夢の原因を取り除けて、俺は腹が膨れる。皆幸せじゃないか」
「夢魔が記憶を食べるなんて、初めて聞いた」
 夢は記憶の残滓だ。悪夢が好き、とか淫夢がいいとか好みが別れると聞くが、ラフィタは夢ではなく記憶を食べる夢魔に会ったことはなかった。
「じゃあ、いいな。食うぞ」
「ま、待って!」
 フェリックスの額に触れようとするジェラルドに、ラフィタは間に身体を滑り込ませて阻止する。
 足に引きつったような痛みが走ったが、気にはならなかった。
 言われた通り、嫌なものは失くしてしまえばいい。
 なのに、フェリックスに触れて欲しくなかった。
「どうして。俺腹減ってんだよ、食わせろ」
 フェリックスに覆いかぶさるラフィタにジェラルドが囁く。
「た、食べる記憶と、食べない記憶って選べるの?」
「まあ、ある程度は」
「僕と会ったあとの記憶は、残せる?」
「出来るから、どけよ」
 そう言われても、ラフィタは退くことが出来なかった。
 本当にこのまま記憶を食べてもらって解決するのか、混乱した頭ではよくわからない。
 今、ここでその決断は出来なかった。だけどジェラルドは違うらしい。
 今すぐにでもフェリックスの記憶を食べるつもりなのか、ラフィタは苛立ったように肩に手をかけられた。
「おい、どけって」
「やめて!」
 ラフィタの小さな身体はあっけなく仰向けに避けられた。
 ごろんと転がったラフィタは、フェリックスの額にジェラルドの指がずぶりと押し込まれるのが見えた。

『ジェイ。つまみ食いはやめなさいと言っただろう』

 住居を包む泡がごぼりと音を立てて歪んだ。
「?!」
 ひゅっと息を飲むラフィタの目の前で、水が粘度を含むスライムのようにジェラルドの身体を拘束していく。
「んんっ!」
 肢体に水が絡みつき、喘ぐように大きく口を開く。抗う様子は見えるが、透明な水が相手のせいかジェラルドは身動きが取れない。
「まったく。油断するとすぐにこれだ」
 戻ってきたホアンがジェラルドの身体を抱き寄せて、ほっそりとした手でジェラルドの視界を覆う。
 ラフィタを見たホアンはゆっくりと弧の形に唇を歪める。
「危なかったな」
「え......?」
 どういう意味だろう。
 憔悴しきった表情で見上げるラフィタに、ホアンは愛しげにジェラルドの身体を抱き締めながら口を開いた。
「記憶は個人の歴史。苦しくとも、今まで生きてきたかけがえのない財産を奪うのは、あってはならない」
「でも......フェリはつらそうで......」
 苦しんでいるフェリックスを思い出して、ラフィタはまたぽろりと涙を零す。それはすぐさま水中に消えていった。
「自らの力でその人間を助けられないのであれば、空へ帰れ。雛よ」
 淡々と告げられたラフィタは大きく身体を跳ねさせた。
 突き放された、気がした。
「っや、なら!忘れたっていいじゃねえか!苦しまずにすむ!そうだろうラフィタ!」
 ホアンの腕の中にいたジェラルドが叫んだ。そのジェラルドをホアンは微かに笑みを浮かべて見つめる。
「私の思い出以外は食べてはいけないと言っただろう。いけない子だ」
「てめえの記憶なんて不味いんだよッ!食えるか!」
 喚いて暴れるジェラルドをあっさりと押さえ込んだホアンは、おかしそうに笑う。
「昔はおいしいと言って食べていたのに。......ラフィタ。ジェラルドは禁忌の子なんだ。本当は生きていることさえも許されない。記憶は食べてはいけないのだよ。死んでしまうからね」
「ホアン!」
 悲鳴のような声がジェラルドから上がった。
「死んじゃう......?」
 そのような話を聞いてないなかったラフィタは目を見開いた。
「幼子が成長するのは日々の体験があるからだ。そうして生き物は大人へ成長していく。記憶を奪われれば、そなたの愛した番いは違う存在になるだろう。......ジェイは説明しなかったようで、すまない」
 謝られたラフィタはもうどのように反応していいかわからなかった。ただでさえ衝撃的なフェリックスの体験を見たあとなのだ。
 どこかぼんやりとしたままのラフィタを見たホアンは苦笑を浮かべて身を引いた。
「眠れないと思うが横になりなさい。ジェイは私が仕置きを与えておこう」
「ッ」
 怯えたような表情を浮かべたジェラルドはホアンの腕の中で身を縮める。青ざめた顔で伺い見るジェラルドを連れて続きの部屋へ消えていった。
 それを見送ったラフィタはぱったりとフェリックスの隣に倒れこむ。
「......ふぇり」
 青白い顔で眠りに落ちる愛しい旦那様へとずりずりと擦りより、薄い唇に口付けを落とす。
 ひんやりとした感触だった。
 あの苦しみを見た今では、自分の歌声も想いもフェリックスに届く気がしない。
 ならば、諦めるのか。
 自分自身に問いかけて、ラフィタは苦笑した。
 フェリックスと出会う前は、その存在を知らずにも生きていけたのに、知った今では離れて暮らすことなど想像できない。
 フェリックスが無理をしているのは自分が原因であることもよくわかっている。
 それでも、離れられない。
 残酷だとラフィタは自分のことを分析する。
 死ぬことで、自分の存在を見出そうとしたフェリックスを引き止めたのは自分だ。今も、自分がいるからフェリックスはここに留まり、守ろうとしてくれている。
 そんなフェリックスに自分が出来ることはなんなのか。
「愛してる、大好きだよフェリ。ごめんね、僕がそばにいると、フェリックスは苦しいんだよね。楽になれる道を、僕のせいで潰してる」
 眠りに落ちたままのフェリックスに懺悔のように囁く。声が涙で震えることをラフィタは腹立たしく思いながら、一拍置いて気持ちを落ち着かせる。
「夢の中で助けてくれて、ありがとう。側にいてくれてありがとう。僕、フェリがそばにいてくれるだけで幸せだよ。なのに......く、苦しめて......ばっか、で......ごめんねぇ......!」
 泣くな。泣いちゃいけない。フェリックスはもっと辛い。自分が泣いていてどうする。
 ひくひくと喉が痙攣する。嗚咽を飲み込んで、ラフィタはぎゅっと目を閉じた。
 深い決意を心に秘めて、ラフィタは口を開く。
 甘く柔らかな声色で歌い出したのは、二度目の、求愛の歌。水の中から聞こえるその歌声に、湖面を走る風が反応して水を波立たせる。
 歌い終えると、ラフィタはもう一度フェリックスに口付けを落とした。
「僕が、フェリックスを幸せにするよ。僕の大事な旦那様。愛してる......」
 なんて傲慢で思い上がりな自分。できるかわからないことにフェリックスを巻き込んで、苦しみを長引かそうとしている。
 それでも、諦めない。
「愛しい人が苦しむのを見るのが、僕の罰だよフェリ......フェリックスの苦しみを分かち合えるなんて、思わない。だけど、でも、絶対に、幸せにするからね」
 苦しんだ以上の幸せを、僕があげるから。
 ホアンの言葉通り眠れそうになかったラフィタは、フェリックスの穏やかな寝顔を見つめながら、羽根で抱き締めるように包むと、せめてこれ以上悪夢を見なくて済むようにと祈りながら瞳を閉じた。


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