そのさん-4
先ほどは止められたため息が、勝手に口から零れ落ちた。
しばらくすれば元に戻るだろうと楽観的に考えた春樹は、壁に寄りかかって足を投げ出す。
男の俺に舐めさせても楽しいものではないだろう、と春樹の内面で、ふつふつと愚痴が沸き上がってきた。
最初言い出されたときは、言葉の意味すらわからなかった。
男性の性器を舌や唇で愛撫する性技。と引いた辞書に書いてあり、それを知った春樹はショックを受けた。
大事な器官を人の口に入れて、噛まれたらどうする。と。
二度目は辞書で言葉の意味を知った後で、博也は戸惑う春樹の前で『あれだけねちっこいキスするんだから、俺に触りたいんだろう』と言い切った。
ときどき、春樹は博也の頭をかち割りたくなる。
どんな思考回路をしているのか一度覗いてみたい。
「......」
ふと、春樹は自分の唇を撫でた。
本意ではない告白のあと、付き合うようになってから何度も口付けをするようになった。
『好き』と『愛してる』は標準装備だ。囁きながらの口付けでないと、博也は満足しない。
重ねて啄ばんで、吸い上げて舐めて。
様々なキスの仕方を博也に指示された。
ねちっこい、と表現されたキスも、それが一番博也が喜ぶのだと気づいたから、よくするようになった。
柔らかい唇の皮膚が触れ合い過ぎて痺れても、博也はそれについては怒らないのだ。
あんなにふにふにしている博也の唇が、もしや鈍感なのか疑って噛み付いて殴られたのも、つい最近。
口と口ならいい。あれは、適度であれば気持ちがいいと思う。
だが性器を口に含むとなると、また事情が違う。
春樹の脳裏に浮かぶのは、小さい頃の博也の裸体。
小学校低学年の頃までは良く遊んでいたし、泊りにも行った。
その頃のその部分と、同じ大きさであるならば口に含むのも容易いが、高校生にもなってそんなはずがない。
自分のものとそう変わりがないだろうと思うと、春樹は憂鬱だった。
霊長類には、自分の優位を印象付けるための行為として、性技を持ち入ることもあると聞く。
アイツは猿と同じなんだ。お山の大将になるために格下を虐げなければ気が済まないのだろう。
「あら、どうしたの?」
ぼんやりと座っている春樹に、声が掛けられた。
視線を上げると、白衣を着た中年の女性が立っている。
保健医だ。
「気分が悪くて、保健室に向かう途中だったんです」
答えながら、春樹は立ち上がる。......大丈夫、今度は無事に立ち上がることが出来た。
「そうだったの。少し顔色が悪いわね。歩ける?ベッドで休んでいいからね」
廊下で座り込んでいた春樹に、保健医は優しく勧めてくれた。
そのまま、春樹は保健室で時間を過ごし、次の休憩時間になってに教室に戻った。
「俺、今日はから揚げ弁当な!」
昼休みになって博也の教室に向かうと、上機嫌のお山の大将に金を渡される。
春樹が博也の昼食を買いに行くのはいつものことだ。
その際に博也は春樹の分の昼食代も渡す。
博也の分だけを買って戻ると怒鳴られ、春樹はいつしか昼食を持ってこないようになっていた。
「あ、ついでに俺にジュース買っ......ってええええ!」
お金を渡しながら、春樹に使いを頼もうとしていた男が殴られる。
殴ったのはもちろん博也だ。
普段は気にも留めないことでも、博也は春樹が絡むと途端に暴力的になる。
明るい博也の豹変振りに、博也の友人は驚いた様子だったが、それでも今では受け入れていた。
「信行!春樹になんでてめえ命令してんだよ!」
「痛いよう......ついでじゃんよう」
ほっぺたを押さえて泣きそうな表情になるのは、博也の友人の1人。
制服を着崩し、長めの髪を子豚があしらわれたデザインのヘアピンで止めている。
金に近い髪色を、これまた地毛と言い切る男だ。
彼も、博也とは仲が良い。
「いい。俺、買ってくる」
そう答えながら春樹が、桜庭信行に手を差し出す。
が、その手は博也によって叩き落とされた。
それを見たホスト張りの外見を持つ男、関谷真吾が苦笑を浮かべる。
「あーもう自分で買ってこいよ信行。辻村は博也のものなんだから。なー?ひーろやッ」
関谷が博也の髪を弄りながら同意を求めると、足を組んで座っていた博也がぞんざいに頷いた。
「ったりめえだろう」
「博也のけちー」
「うるせえてめえ自分で動けよッ」
「それ言ったら、博也だって自分で動けばいいじゃん~」
ぎゃあぎゃあ騒ぎあう博也と桜庭。
黙って見下ろしていると、博也の髪の一部で小さな三つ編みを作っていた関谷がにっこりと笑う。
「わんこちゃん早く買って来いよ。ご主人様に怒られるぜ?」
言いながら友人と怒鳴りあう博也に抱きついた関谷が、春樹に流し目を送った。
博也と一番仲が良いのはこの関谷だ。
何かと博也は仲間内では一番に関谷のことを呼ぶ。
それに対して、関谷もまんざらではない表情で応じるのだ。
「......」
春樹は黙ったまま、三つ編みされた博也の髪に手を伸ばした。
「信行のばあか!数学のテストで65点取ったからっていい気になるな、よ......」
もはや完全に違う話題で桜庭を罵っていた博也は、春樹に頭を撫でられて身動きを止めた。
「......」
「......」
桜庭はおやと云う様に肩を竦め、関谷は面白くなさそうに鼻を鳴らす。
ぐしゃぐしゃと撫で、春樹は博也の髪の三つ編みが完全になくなってから「買ってくる」と席を外した。
「な、な、なんなんだアイツ!」
乱された髪を直しながら顔を赤くした博也が、ぶつぶつと呟いた声は、春樹の耳には入らなかった。
廊下を歩きながら春樹は考える。
博也は見目麗しい者を友人に添える傾向がある。
自分と同じような外見で、馬鹿騒ぎを出来る者が好きなのだ。
俺だけ、違う。
「早く、構わなくなればいいのに」
ぽつりと呟いた声は、存外に心に染み入る。
関谷なら、フェラチオされるのもするのも上手そうだ、となんとなく思った。
辿りついた購買部で博也の弁当と、自分用にホットドックを購入する。
これだけ細ければ楽だろうなと思いながら、春樹はすぐに教室に戻った。