そのうち2-01



 部屋の中に広がる甘ったるい匂い。
 湯煎でボールの中のチョコをかき回している春樹は、いつものように無表情だったが、隣に座った博也はその匂いに顔をしかめていた。
「......あっま!匂いだけで胃もたれしそう!」
「できあがるまで、外出していたらどうだ?」
「うっせぇよ。黙って作れ」
 春樹の提案に、博也は不機嫌そうに吐き捨てた。
 作る前から、博也はずっと不機嫌だ。
 さわらぬ神にたたりなし。不機嫌な博也には、下手に声をかけない方がいい。
「これ食べ終わったら、勉強するぞ」
 自分に言い聞かせるようにして実は博也に訴えながら、春樹はすっと手元のボールに視線を落として生クリームを混ぜた。
 バレンタインデーからすでに三日が過ぎている。
 一応恋人同士となった春樹は、気を回してくれた山浦の助言の元、イベント前日には一度聞いたのだ。
「チョコレートはいるか?」と。
 それに対して博也は「そんな子供っぽいもの欲しがるかよ」と言い切ったので、春樹は当日にはなにもしなかった。
 しかし、その日から博也はずっと機嫌が悪かった。
 当日はそのまま過ぎ、翌日もなにもせずに過ごした。
 そしてバレンタインの余韻も過ぎ去った今日。とうとう博也が爆発した。

「なんでチョコよこさねーんだよ!!」と。

 確認したときは鼻で笑い、その後もすぐに言わずにこの中途半端な時期で言い出すのが博也らしいとも言える。
 春樹は内心うんざりしたものを感じつつも、ごく淡々と安売りになって売れ残っているチョコレートを手にしたが、それでは博也は納得しなかった。
 発音のしにくい店のチョコか、でなければ手作りを寄越せという。
 どこに売っているものかわからないチョコを買うことはできない。そうなると必然的に手作りだ。
 従って、渡す相手の前でチョコレートを湯煎することになった。
「あー甘い!なんでチョコってこんな甘い匂いしてんだよ」
 未だにぐちぐちとぼやく博也をよそに、春樹は黙々とチョコを仕上げていく。
 博也のリクエストで、春樹が作ったのは生チョコだ。
 春樹としては、さっさとチョコを博也に渡して、勉強をしたいところだ。
 この間やった数学の小テストで、一桁の点数を取った博也を救う為に、担当教諭が追試を計画してくれたのだ。
 勉強をしない上にお騒がせな性格をしている博也は、全体的な評価がマイナスであり、さらに追試も落とせば大学の推薦の内申にも響きかねない。
 博也には良い大学に行ってもらいたいと思うのに、当の本人はあまり乗り気ではないようで、油断するとすぐに勉強をさぼる。
 生クリームを溶かしてチョコに混ぜきった春樹は、型にチョコを流し込みながら、どうにか進んで勉強させられないかと思案していた。
「これ、もう終わりか?」
「固めてココアパウダーをかければ、完成だ」
「ふーん」
 型に流し込んだチョコを、不器用に平らにならしていく春樹の手元をじっと見ている博也は、初めてのものを見る幼児のような表情だ。
 どうにかすべて流し終えた春樹は、型を冷蔵庫にしまいながら、意を決して口を開いた。
「それで......30分ぐらいでできると思うから、その間に少し勉強でも」
「してれば?俺ゲームすっから」
 そっけない回答は、思ったよりも離れていた。
 自分のそばに付いていた博也の声が遠いことに視線を向けると、博也はすでにテレビをつけてゲームを始めている。
「......」
 ぱたんと冷蔵庫を閉じた春樹は、小さくため息をついた。


 そして出来上がったチョコレート。
 生チョコなので包丁を入れても柔らかく切れる。春樹は均等に切ったつもりだったが、形はどうみてもいびつだった。
 皿に適度に並べ、ココアパウダーを振りかけて一息付いた春樹は、テーブルの上にそれを置いた。
「博也」
「おっせえよ。つーか、言われて出すなんてマジ彼女失格じゃね?」
 今までやっていたテレビゲームをセーブもせずに電源を落とすと、博也はチョコの前に腰を下ろした。
 嘲るような口振りだが、博也の表情は先ほどとは違い、嬉しそうに輝きいそいそとそのチョコに手を伸ばす。
「それ食べ終わったら、勉強し」
「うわ!あま!ほんと甘い!これ普通のチョコかよ?!」
「一般的なもので作ったつもりだが」
「おっまえなあ......ビターチョコで作るとか、ちったあ頭使えよな!甘すぎんだよ!」
「......」
 頭ごなしに怒鳴られて、春樹は押し黙る。
「あーあ、こんなひどいの食べてやる俺ってやさしぃ」
 なんのかんのと言いつつ、博也は春樹が作った生チョコを食べていた。
 だが春樹は無言でその皿を取り上げる。
「あ?なにしてんだてめえ」
 質問には答えず、春樹はそれを手にしたまま台所に向かった。
「おい!春樹?!」
「博也の言っていた、どこかの店のチョコレートを買ってこよう。どこに店があるか教え......」
 普段生ゴミを捨てている袋に、その皿を傾けようとしていた春樹は、痛いぐらいに強く腕を捕まれて動きを止めた。
「人のもの、勝手に捨てようとしてんじゃねえよ」
 間近にあった怒気をはらむ瞳で睨まれる。
 博也の視線に昔より耐性がついた春樹は、涼しげに見返した。
「無理をしなくていい。少しは食べたんだ。......甘いものが嫌いじゃなくても、この量は多すぎた」
 皿にはまだチョコがいくつも乗ったままだ。皿を傾けようと春樹は力を込めるが、それを博也に押し止められる。
「食べねえとか言ってねえだろ。......これはあれだ、皿が悪い。もっと食欲そそるような皿にしろ」
 視線を逸らしながら、そうトーンを下げて要求した。
「......」
 ひどいもの、と言ったのを聞いたばかりだ。皿を変えても味が変わるわけではない。
 それに春樹の家には、素っ気ない陶器の皿ばかりしかない。
 これ以上どう盛りつければいいのかと、表情を変えぬまま考え込んでいると、博也に皿を奪われた。
 それから博也は、皿を流し台の上に置いて身体を屈める。
「な、......ッ」
 何を、と問いかけをする前に膝の裏側を手で押されて、春樹はかくんと博也の前に膝をついた。
 急な行為に春樹はわずかに目を見開く。
 博也はまっすぐ立つと、戸惑う春樹の顎を掴んで上を向かせた。
「ひ、りょあ?」
 恋人を呼ぼうとした春樹は、遠慮なく口の中に突っ込まれた指に正確な発音を阻まれた。
 中指と人差し指が春樹の舌に絡む。
 意図がわからずに雰囲気に困惑を滲ませる春樹を見下ろしながら、博也は一言。
「舌を出せ」
 と命じた。
 その言葉に反応する前に、指で挟まれた舌は引きずり出されている。
 言われるがままに、れ......っと自ら舌を差し出した春樹は、博也が何をするのかと様子を伺った。
 博也は春樹の唾液にまみれた自分の指を舐めると、流し台の上に置かれたチョコの皿に手を伸ばす。
 チョコを摘んだ指が、ココアパウダーで汚れた。
 いびつなチョコを、博也は春樹の舌の上に置く。
「......」
「うん。これでよし」
 満足したように口元に笑みを浮かべる博也に、春樹は舌の上のチョコを見たまま動けない。



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