2月-7
電車に乗る気にはなれなかった。
なので、歩いて家を目指す。
和臣の家から、俺の家は歩くと結構遠い。
「ふ......っく......ぅ、うッ」
片鼻に詰めていたティッシュを取って、服の袖で顔を拭く。
なんかもろもろついたけど、気にしない。
すれ違った人に振り返られても、気にしない。
笑顔。笑顔だ。
目から出る水は、早く枯れろ。
......俺は、幸せになるんだ。なんなきゃなんねえ。
あのばかが、あんなことを俺に言った理由を考えろ。
うぬぼれなのも、思い上がりなのもわかってる。
けど、アイツが引く理由は、俺のことしか、ない。
変色した頬。似た様な色が、身体にあるのかもしれない。
階段から落ちただと?あざはあったけど、擦り傷はなかった。
片頬ばっかりぶつけるか普通。
殴った手が痛い。
俺が殴ったみたく、左手で胸倉を掴んで右手で殴れば、左側が打ちやすいんだろうな。
いつだ。
治りかけだった。腫れも引いていた。
あざって、どのぐらいで治る。
......俺と会わなくなってから、一週間以上。
最後に会ったのは。
キスして別れた、雨の日のあの日。あの日は、別段変わりはなかった。
「ッ......」
舞い上がっていたときのことを思い出して、胸が苦しくなる。
だらだら泣いて、みっともねえ。
考えろ。
雨。濡れる。風邪。......跳ねた、泥。酷く汚れた、コート。
「あ」
心臓が、嫌な音を立てた。
血の気が引く音がする。
『家族、にだって......紹介するわけにいかないしさあ』
言いよどむようだった和臣の声。
別れ話になった原因をようやく理解した俺は、立ちくらみで壁に手を付く。
路上でのキス。それか。
舞い上がった原因。和臣が、急に俺を傷つけて遠ざけた理由。
「......」
手の平で壁を押して、ふらふらと歩く。
息が上がった。家が、遠い。
時間をかけて歩いて、俺は家の近くの、和臣の元バイト先の前に差し掛かっていた。
コンビニでさえ、見ることが嫌で堪らない。
すぐに立ち去ろうとするが、駐車場を掃除していたコンビニ店員から物凄く視線を感じた。
「おい!お前どうしたんだそれ!!」
店員じゃねえ。店長だ。
スーパーに買い物いったり、コンビニで仕事したり忙しいんだなあんた。
現実逃避に、そんなことを考えていると、駆け寄ってきた店長は俺の顔を見て驚いたようだった。
「殴られたのか?鼻血でてるし、ぐちゃぐちゃだぞお前」
興奮したから、また鼻血出たのか。
指摘されて、俺は鼻の下を手の甲で拭った。
涙と鼻水と鼻血とで、もうどろどろ。
「......ティッシュ、もらえませんか」
「それより、店で顔洗ってけば?」
そう申し出されて、俺は深く頷いた。
すっきりして、考えたい。
俺はカウンターの中に入れさせてもらって、そこで顔を軽く洗った。
「お前殴るヤツがいるなんて、勇気あんなあ。ほらタオル」
何を勘違いしているのか、店長は感心しているようだった。
「......なんで、ですか」
タオルを投げて寄越されて、俺は軽く頭を下げながら尋ねた。
「だってお前、昭宏の弟だろ。アイツ、俺より年下だけど高校の頃からのダチ」
へえ、知らなかった。
良く良く見れば、どことなく学生時代にうちに来ていた、荒っぽい連中と同じ雰囲気が少しだけ見て取れた。
もはや腹出た中年に差し掛かってるけど。
店長が兄の知り合いか。世間って狭いもんだな。
そう考えていた俺は、店長の口から次に出た言葉に真っ白になった。
「小野を連れ戻すよりも、昭宏にまた、使える大学生を紹介してもらうかな。相変わらず顔広そうだし」
「え?」
「ん?」
俺が思わず声を出すと、店長は俺を不思議そうに見る。
「またって、かず......小野って、兄の、紹介だったんですか?」
意識せずとも普通の声が出た。
「おーそうそう。安いバイト代でも、文句言わずに結構入ってくれたから、助かってたんだけどなあ」
急に辞めるし、とぼやいて頭を掻いたコンビニの店長は、俺が呆然としているのに気付いたようだった。
「あれ?知らなかったのか。俺てっきりその繋がりで、弟くんは小野と知り合いだと思ってたんだけど」
知らない。
ちょっと待て。
どんな、繋がり、だって?
「あ、それとも君バイトする?」
なんてな、と笑う店長に曖昧に笑って、タオルの礼をしてからコンビニを出た。
呆けながら歩いて、家にたどり着く。
『ちょっと問題が起きたようなので、職場に行ってきます 母』
母は、そんな伝言を残して外出していた。
よかった。顔洗ったとはいえ、腫れた目とか見られたら言い訳出来ないところだった。
安心しながら、俺は電話の受話器を取った。
慣れた11桁の番号を打ち込む。
電話は、何回かのコールの後、留守電に繋がった。
「俺、だけど。話があるから、帰ってこいよ」
それだけ告げて電話を切る。
兄なら、昭宏なら、どんな用件だかわかるだろう。
ぎゅっと強く唇を噛む。
さあ、洗いざらい話してもらおうじゃねえか。