3月-7

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「座れなかった」
 先ほど言えなかった不満を口にする。
 すると、和臣に呆れたように苦笑された。
「そんなの落としてよかったのに」
「嫌」
 不機嫌になりながら畳んでいく。
「ともあきさん」
 呼びかけられても振り返らないでいると、俺が畳み終わらないと駄目だと思ったらしい。
 隣に座って、一緒に畳んでくれた。
 ようやくソファーの上が空く。
 そこに座って、あとで洗濯もしよう。なんてぼんやり考えていると、和臣が俺を呼んだ。
「これ、見覚えがある?」
 そう言って和臣が布から出してきたものは、一枚の絵画だった。
 優しそうな女性の絵。微笑む女性のスカートには、枠外に引っ張られるような、皺がある......。
「......なんでここにあるんだ」
 軽く首を傾げて、和臣に尋ねた。
 見覚えがあるもなにも、豪華な額がないが、よく行っていた美術館の無料展示に掛けられていた絵画だ。
 確か、あそこにあった絵画は、県立の美術館に移動するって、誰かに言われたような......ん?
 それを言ったのは、和臣だ。
 そうだ、この男に言われたんだ。
 絵から視線を外して見上げると、和臣はどこか緊張した強張った笑顔を浮かべる。
「これだけ一枚、無理を言って譲ってもらった」
 へえ。そんなことできるんだ。
 感心していると、和臣はもう一枚、同じ大きさの絵画を出してきた。
 ただし、そちらには布に包まれたままで、絵が見えない。
 和臣はそれを、俺の座るソファーの肘掛に寄りかからせるように立てかけると、少し離れた。
「それも見て」
 自分では布を取ろうとしなかった。
 少し戸惑って、和臣と布に包まれた絵画を交互に見ると、視線で促される。
 女性の絵のそばに一緒に飾ってあった、動物の隠れていた風景画だろうか。
 そんな想像をしながら、俺は何気なく布を取った。
「......」
 思わず、目を見開く。
 じいっと、アヒルに視線を向ける、幼児の絵。
 アヒルに目を奪われつつも、その子供は柔らかい色合いの布を握ったまま、離そうとしない。

 そしてその布は、女性の長いスカートと、同じ色。

 これは親子の絵画だと、和んだことを覚えている。
 その夏の日を。
 女性の絵だけが残って、幼児の絵が外された理由も、俺はよく覚えていた。
「これ、俺なの」
「へっ?」
 絵を凝視していた俺は、『これ』を指す言葉が絵画だとは気付かなくて慌てた。
「そのガキ、俺なんだ」
 和臣は、俺に言い聞かせるように、ゆっくりと告げた。
「でも、この絵......」
「修復してもらったんだ。ほら、このあたりに、少し残ってる」
 絵画を覗きこむ俺の隣にしゃがんだ和臣は、そう言って子供の顔を斜めに指先で辿る。
 言われてみれば、うっすらと切られた跡が、線になって走っているのが見えた。
 何度も視線でその後を辿り、それから俺は和臣に視線を向ける。
 その間、和臣は俺の横顔を眺めていたらしい。
 視線がぶつかって、少し驚いた。
 穏やかな光を灯す和臣の目を見て、俺の口が勝手に動く。

「お前、あのときの、ガキか」

 俺の問いかけに、和臣はゆっくりと頷いた。
 手を掴まれて、大げさに身体が跳ねる。
 和臣は俺の手の平を上に向けると、そっと唇を落とした。
「手に、傷が残らなくて、本当に良かった......」
 何度も何度も、唇を押し当てられる。
 まるで尊いものに触れるかのようなその行為に、俺は身動きすることすら出来ず、ただ和臣を見つめていた。
「よく、わかんないんだけど」
 ようやく出た声は掠れていた。
 混乱している。和臣が、その昔会ったことのあるくそガキで、それで、えっと。
 一年前に出会う前から、コイツは俺のこと知ってたって、こと?
「俺の親の話は、覚えてる?」
 戸惑う俺に、和臣は少し寂しそうな笑顔で微笑んだ。
 しばらく考えて、俺は忘れていたことを思い出す。
 そっか。コイツの父親......。
 昭宏が俺にくれた、新聞の切り抜きに書いてあった、画家の交通事故。
 幼い子が亡くなったと、報道されていた。
 俺が目を伏せると、それで思い出したことを悟ったらしい。
 和臣は二枚の絵画に布を被せて床に下ろすと、俺の隣に座った。
「俺の父親もあんまり強い人間じゃなくてさ。事故があってから、人が変わっちまったんだよ」
 和臣は俺を見ずに、ぽつんぽつんと語った。
 新鋭の画家にとってのスキャンダルは大きく、絵画も売れなくなった。
 不慮の事故とは言え、幼い子供の命を奪ってしまった重圧に耐え切れず、酒に逃げた。
 スキャンダルを気にせず支えようとした人々もいたが、周囲が支えようとしても本人が折れてしまっていてはどうしようもない。
 そういった内容だった。
 淡々とただ事実を告げているが、壮絶なこともあったんだろう。
 俺は黙って、和臣の言葉に耳を傾けていた。
「まあ、いろいろ切羽詰ってたんだろうな。あの女......母もがんばろうって言ってたけど、届かなかった」
 父が死んだのは、事故から3年後だった。
 そう告げた和臣の顔には何も浮かんでなくて、俺は思わずぎゅうっと和臣の手を握る。
 すると、肩を抱き寄せられた。
「感傷的になってごめん」
 そう和臣は詫びたが俺は首を横に振って、頭を胸に抱きこんだ。
 和臣は感傷的と言ったが、少しもそんな様子が見られなかった。
 もう少し動揺してくれればいいのに。そう俺が感じてしまう程だ。
 不器用だなと思いながら、短い髪を撫で回してやる。
「ともあきさんに会ったのは、その後だ。俺が苗字変わる前の夏休みだから」
 これからが本番ね。和臣はそう前置きした。
「父が死んで、俺にはすぐに新しい父が出来た。問題はその小野の父が、......暴力団のフロント企業の社員なんだ。金回りからいったら、たぶん上の人間なんじゃないかな」
 俺もこんなところで1人暮らし出来てるし、と和臣は肩をすくめて笑った。
 いつのまにか膝立ちになっている俺の腰に手を回して、下から見上げてくる。
 俺は和臣の肩に手を置いた。
 急に現実感のない話になって、俺は戸惑った。
「どうして、そんな人がお父さんに......?」
「うち、金なくてさ。絵も売れなかったし、慰謝料払うのに借金してたらしい。最後は親父が死んだから、ある程度は保険金でどうにかできたみたいだけど、......母もいろいろと『お世話』になったみたいだから」
 皮肉を口にする和臣。
 どうやら和臣は、新しい父親と母親、その両方を快く思っていないようだ。
 絵を切り刻もうとしたことと言い、俺にはわからないような複雑な事情があるようだった。
「親父が死んだ後、すぐに結婚を言い出したお袋は、あの時からずっと嫌い。死んで保険金を払って、それで全部済まそうとした親父も嫌いだった」
 腰に回された腕に力が入る。
 締め付けられるように抱きしめられて、少し苦しかったけど俺は我慢した。
 ゆっくりとまた和臣の髪を撫でてやる。
「あれ、本当はもう一枚あったんだ。親父の自画像も含めて、一枚の絵だった。凄いデカイ絵。『私の家族』って題名つけてたんだ」
 馬鹿っぽいだろ、と和臣は掠れた声で呟いた。
 女性の絵も、幼児の絵も今の状態でもそれなりの大きさがある。俺には元の大きさが想像付かなかった。
「事故があった後、絵は分割された。親父がしたんだ。親父の自画像の部分は焼いて、なくなった。......全部、燃やしちまえばよかったのに」
「和臣」
 俺の腹に顔をうずめた和臣は、呼びかけても顔を上げない。
「母親と子供を分けたのは、それぞれ、お袋と俺に渡すつもりだったみたい。俺が壊そうとしたせいで、二枚まとめて、他の風景画と一緒に、寄贈されちまったけど。......あれが飾られるの、俺我慢できなかった。だって、あれはもう、家族の絵じゃなかったから」
 和臣は深く息を吸って、吐く。
「......良い、絵じゃないか」
 あんなに、絵のモデルに愛情が感じられる絵は、そんなにないぞ。
 昔告げた言葉を、もう一度口にする。
 すると、和臣は俺を見上げた。
 少し目元は赤くなっていたが、泣いた様子はない。
 俺は和臣の頬を手で包んで、こつんと額を合わせた。
「俺、ともあきさんが言った言葉の意味、あのときわかんなかった。こんな分割された絵。ってずっと思ってた。でも、分割してでも残したいって思ったのかと、今では少し考える」
「良かった」
「え?」
 俺が晴れやかに笑ってやると、和臣は瞬きを繰り返す。
「お前の中で、そういう意味が見つけられたんなら、良かった。......俺は、俺の中では、風景画も人物画も、それぞれ世界が出来上がってるように見える。絵を見るのは、その世界に入り込んでいくような感覚があって、俺好き」
「......」
「あの絵にも、その他のいろんな絵にも、いろいろ影響受けてる人、いると思う。だから、あの絵は、残ってよかった。あそこにあって良かったんだ」
 お前に会う、きっかけになったことだし。
 微笑みかけると、和臣の表情も和らいだ。
「人それぞれに、対して存在意義があったら、......そうだな。燃やされなくてよかったかも」
 小さく笑う和臣に、愛おしさが増してくる。
 キス、したい。
 そう思ったが、俺は和臣の頭を軽く抱いてゆっくりと離すことで留まった。
 話はまだ、終わってない。
 俺が離れたことで、和臣もそう気付いたのか、表情を引き締めた。
「俺は、一部の人間の間では今でも死んだ一之瀬の息子で、......今では小野の息子だ。小野の父は、俺を家業に巻き込むつもりはないようだけど......」
 少しだけ眉根を寄せて、苦しそうな表情になる。
 いろいろ思い当たることがあるのか、はあ、と付いた和臣のため息が重い。
「親は、関係ないだろ」
 俺の言葉に、和臣は力なく笑った。
 平凡に生きてきた俺には、わからない部分の話だ。
 でもそれには負けたくないと、ぼんやりと思った。


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