番外編3-1
-不本意な愛情-
静かなクラシックの掛かる店内には、ディスプレイに合わせた数の少ない商品が並んでいる。
入店する際のドアは、自動ドアではないのに自動ドアだった。いや、普通に開け閉めするドアなのだが、ドアマンが立っていて開け閉めしてくれるから、自動ドア......なんだろう、たぶん。
明らかに場違いすぎる場所に、俺の身体は凍り付いてろくに動けもしなかった。
「お顔が小さくていらっしゃいますから、大柄よりも細目のストライプなどがお似合いでしょう。お好みのお色はございますか」
い、いえ、あなた様に顔が小さいなんて言われるほどではございません。
というか、俺に聞かないでください。答えられないんで。
微動だにしない俺に、俺なんかよりもよっぽどちっちゃい顔の、ほっそい腰の、なっがい足の店員は柔らかく微笑んだ。それから、少し離れた、俺をこんな魔界に連れてきた男に視線を移す。
ブティックに来たにも関わらず、鷹揚にソファーに座り、あまつさえコーヒーなんかをちゃっかり飲んでいるうちの大魔王様は軽く頷いた。
店員様も軽く頷き返す。
なんのアイコンタクトですかそれ。
兄一人なら、それこそ目を見て訴えれば意味を教えてくれるだろうが、兄は俺なんか空気のように無視している。
それどころかどこからともなくやってきた男の人と、なにやら楽しげに話出してしまった。
「では、こちらへどうぞ」
「......」
恭しく促されて、俺は戸惑いながら店員に言うがまま店の奥へと進む。そこには重厚な店内に沿ったフィッティングルームが備え付けられていた。
俺をその小さな箱に押し込んだ店員は、いくつか服を手にして戻ってくる。
細身の紺のストライプスラックス。それからベストと薄水色のシャツ。
それをそばのハンガーに掛けた店員は、そこで動きを止めて俺を見た。
え?え?なに。
相変わらず動けずにぼけっと突っ立っている俺は、おずおずとその店員を見上げる。俺よりも全然大きいんだこのイケメン。兄よりは小さいけど。
俺と目が合うとイケメンはうっすらと微笑んだ。
「お召し替えですが、お手伝いさせていただいた方がよろしいでしょうか」
よ、よくないです。
俺はぶんぶんと首を横に振る。慌てて服に手をかけると店員は「終わりましたらお声かけください」と慇懃に一礼してフィッティングルームから出ていった。
「.........はあ」
一人きりになって、俺はようやく安堵の息を漏らす。残された服をこわごわ手にとって、値段表を見てひゃっと変な声が出た。
床に落としかけて、慌てて元の場所に戻す。
こんな高いもの、俺が着れるはずがない。
夏場なら一枚何百円のTシャツがあればいいし、下は擦り切れたジーンズか、高校のころのジャージでいい。
引きこもりにウン万円のスラックスとか、シャツとかその他もろもろは必要ないって。
今更ながら、俺は兄にわがままを言ったことを後悔していた。
いや、大したことは言ってない。ほんの些細なかわいい弟からのお願いだ。
それが、どうしてこうなった。
もういちどため息をついていたら、コンコンとドアをノックして先ほどの店員がのぞき込んできた。
人見知りが激しい上に口べたな俺は、目があって固まるしかない。
「......お召し替え、お手伝いさせていただきますね」
なんだこの店員、感じわるっ。断定的に言いやがった。
違うんだ、俺だって一人で着替え出来るんだ。こんな高い服じゃなければ。
破いちゃったらどうするんだ、弁償なんて出来ない。
フィッティングルームに入ってきて、じりじりと迫りくる店員に俺は後ずさる。
壁にへばりついていると温い笑みを浮かべられた。
「藤沢様とご兄弟と伺いましたが、とてもかわいらしい方ですね」
うっ......。言葉に含まれるニュアンスぐらいわかるぞこのやろう。
お前俺をばかにしたな?
俺がむすっとした表情をしても、その店員の表情は変わらなかった。
ばかにした方がばかなんだ。ばーかばーか、ばーか......。
そんな子供じみた暴言は口から一言も発せられることなく、べりっと壁から引き剥がされた俺は、店員の着せかえ人形と化した。
「藤沢様、お話中失礼いたします。お連れ様のお召し替えが済みました」
店員がソファーでなにやら難しい話をしている兄と、男の間に割って入った。
またもや恭しくも強引にフロアに引っ張り出された俺は、毛足の短い絨毯に足を取られる。
ふらついた俺を支えたのは、兄と話をしていた40代とおぼしき中年の男性だ。あごひげがよく似合い、笑うと目尻に皺が出来て優しげに見える。
「うん、似合うね」
そう男性に褒められて俺は首をすくめた。
「背筋を伸ばしなさい智昭」
兄が、昭宏が縮こまる俺に、優しげな声をかけてきたのでぞっとした。おそるおそる視線を向けると、おぞましいことににこやかな微笑みを浮かべている。
「こっちに来て、よく見せてみろ。......ああ、確かによく似合う」
「恐れ入ります」
俺を着せ替え人形にしやがった店員が一礼して一歩下がる。昭宏は立ち上がると、俺のボサボサに延びた髪を指で梳いたり耳にかけたりした。
優しげな手つきにぞくぞくとしたものが背筋を駆け上がる。快感とかそういうもんじゃない。これは悪寒だ。
「ほら回って。......うん、いい」
俺を一回転させると、昭宏は一つ頷いて店員に黒いカードを差し出した。
それから中年男性に話しかける。
「オーナー、今日はお会いできて光栄でした。また今度飲みましょう」
「ああ。君から聞いた銘柄、購入することにしてみるよ。営業より金融関係で仕事した方がいいんじゃないか」
「そんなことはありませんよ。営業が天職ですから」
そこで店員が戻ってきてカードを昭宏に返した。中年男性と握手を交わした昭宏に背中を押される。
え?そっち出口......。これ脱がないと。
身じろぐ俺の両肩に手を乗せた昭宏は、耳元で囁いた。
「似合っていると言ったろう。これは俺からのプレゼントだから、大人しくもらっておけ」
口調は荒っぽいが、声色は優しすぎる。
ぞくぞくぞく......っ。
やばい、なんか昭宏が気持ち悪い。優しい昭宏なんて昭宏じゃない。
間近に迫る兄を怯えつつ見上げると、甘ったるく微笑まれてあまつさえ手まで握られてエスコートされた。
「......っ」
おっ、おと、男同士、でこんな......。
わずかに手を引いても強引に歩かれる。さすがに昭宏は周囲の人の視線なんかものともしない。
「さあ、次はお前のそのボサボサの髪を整えよう。お前に似合いそうなネックレスも見つけたから次はジュエリーショップに行くぞ。その後はお待ちかねのディナーだ」
「あき、ひろ......」
なんだその壮大すぎる計画。着替えるだけで瀕死の俺には、レベルが高すぎるミッションじゃねえか。
兄の愛車に連れ込まれ、助手席に座らされてシートベルトまで兄自らしてくれる。
青くなっただろう俺の額に、周囲の人には気づかれないようにかすめるように口付けするような高等テクニックまで披露しやがった。
「も......」
もういい。やだ。おうち帰りたい。
そんな気持ちで俺は兄を見つめながら首を横に振る。
じわっと潤んだ目も見てるだろうに、兄は「どうした?」と優しく俺の頬から耳の裏側を指でなでてきた。
いや、だから俺は帰りたいんだってば。
なんだよ昭宏のばか。俺は別にこんなこと望んだわけじゃ......。
「『昭宏が、いつも女の人としてるようなデートがしてみたい』だっけなぁ?いやあ俺も張り切って準備したぞ。まさか今更になって、嫌だなんて言ったりしないよな」
う......。
そこで俺は口を噤んだ。
黙りこんだ俺の頭を一度だけ優しく撫でると、昭宏はゆっくりと車を走り出させた。