9月-4
「......って、トモくん......そうで......」
「......だな。......けど......」
人の声が聞こえる。
ひそひそとトーンを落とした声だ。
うっすらと目を開いて、俺は何度か瞬きをした。
思考がまとまらない。
何気なく壁掛け時計に視線を移して、俺はソファーから転げ落ちた。
ヤバい!もう10時半だ。
寝ちまったのか俺......!
「出てくる」
そう声をかけて、玄関に向かう。
と、その途中で腹を腕で捕まれ、持ち上げられた。
紺のスーツが視線の端に見える。
兄だ。
いつ帰ってきやがったんだこいつ。
「離せよ」
足をじたばたと動かして訴えるが、こいつが俺の言うことを聞いてくれたことなんて一度もねえ。
今もそのまま俺を担いで、二階へと進んでいく。
兄は勝手に俺の部屋に入ると、俺をベッドに落とした。
なにしやがる。
起き上がろうとする俺の肩を押さえつけ、目を大きな手で覆われた。
「寝ろ」
「嫌だ」
いやだ。アイツに会いたい。
俺が行かないと、絶対アイツ心配する。
それなのに。
強制的に与えられる暗闇に、さっきまで寝こけていた俺の身体が反応してしまう。
柔らかな布団の感触も、俺を睡眠に誘う。
「っ......でんわ、する」
せめて、今日は行けないって、言わないと。
俺の目を覆う兄の手を掴む。
「連絡しておいてやる。番号は?」
低い声で囁かれた。
俺は暗記したヤツのケータイ番号を告げる。
一度も、俺からはかけたことのない番号。
こいつからの電話で、しかも俺が行けないって言う内容だと、へこむだろうな。
ごめん。
不甲斐ない自分に落ち込みながら、俺の意識は途切れた。
胃が、ちくちくする。
こんなことは初めてだった。
兄に部屋に運ばれて寝ちまった日の翌日は、筋肉痛が酷かった。
手足に何か重石を乗っけられたような状態で、俺は驚いた。
それでも自転車で倉庫に行って、受付の手続きも1人でして、中で作業をした。
ひやりとした視線が、俺の手を鈍くする。
「もう少しスピード上げられない?」そう栗林さんに言われるだけで、俺は固まってしまった。
何度か言われて、むしろ逆効果だと彼女が理解した後は、俺は空気のように無視される存在となった。
他に作業をしている人たちは、時折俺に視線を向けてくるが、声かけられることは一度もない。
昼ごはんは、自宅から持ってきた弁当を1人で食べた。
女性陣は倉庫にある休憩所でごはんを食べていたようだったが、俺はその輪に入れない。
それに、1人になりたかった。
食欲も沸かない。そのため半分残した弁当を片付け午後の作業に入る。
仕事が終われば自転車で家に帰る。
帰れば夕食だが、食欲よりも睡眠が欲しくて寝てしまう状態が続いた。
そんな状態では、もちろんコンビニ店員には会えない。
最初は兄が連絡したが、次の日は俺が電話して、忙しくて会えないことを伝えた。
何のために忙しいかを言ったら、絶対止めに入られると思ったから詳しい事情を伝えないでいると、ヤツに小さく呟かれた。
『忙しいなら、しょうがないよね』
......悲しそうな、声だった。
口が回る方じゃない俺は、本当は会いたいとか、ごめんとか、そんなことは口に出来なくて。
「また、明日」
そう言って電話を切るだけだ。
明日って言っても、その翌日にヤツに会えたためしは、まだなかった。
電話して、少し話して、終わり。
ちくちくちく。
色々、痛い。
俺が受話器を電話に戻していると、最近帰りが早い兄が廊下に出て来ていた。
「飯、まだだってな。一緒に食うか」
廊下からリビングダイニングを覗き込むと、ダイニング側のテーブルに兄と、そして俺の分と思われる料理が並んでいた。
食べ物の匂いに、喉奥から胃酸が上がってきそうになる。
俺が力なく首を横に振ると、兄に手を捕まれた。
「食べないと、倒れるぞ」
ぐいぐい引っ張られる。
嫌だという元気もなくて、俺は黙って自分の席に座った。
椅子に座っても、手は動かない。
「なんか、食べたいもんあるか」
尋ねられて、俺はのろのろと箸を握った。
食べたいものなんてない。今あるものだけで十分だ。
母が気を使って、俺の好物を揃えてくれた夕食。
翌朝も仕事が早いから先に寝るね、と就寝した母に俺は心の中で謝る。
ごめん。美味しく食べられなくて、ごめん。
味はいつもと変わらず美味しいだろうに、心が美味しいと感じられなかった。
味噌汁で他の料理を流し込む。
頑張って半分は食べたが、それ以上は無理だった。
「寝る」
宣言して食器を片付ける。
「残しとけ、俺が後で洗う」
まだ食事中の兄にそう言われたが、俺は意地で洗った。
仕事をしてきたのは、兄も同じ。
俺ばっかり、優遇してもらうわけにはいかねえ。
歯を磨いて簡単にシャワーを浴びて。
あとは泥になって眠った。
辛くて、痛くて、寂しくて。
働く本来の目的を忘れないでいるのが、精一杯だった。