一陣-3
立ったら天井に手が付くような狭い空間に、俺はいた。
フローリングだった床はいつの間にか木の板に変わり、俺は白い重厚な座布団の上に座っている。そこはこの建物の上座に当たり、段差を降りればもう少し広い空間が広がっていた。
揺らめく灯籠は六台。俺の両脇に一台づつと、中間の左右の壁沿いに二台。それに出入り口がある下座の端に二台で、この空間を照らしていた。
そして俺の目の前には、一人の女性が三つ指をつき深く頭を垂れている。
ふわりと広がった千早とその上を流れる黒髪は麗しい。髪の一部は耳の脇で結わえており、金で出来た頭飾りを乗せている。
頭を下げているため、いまの状態からはその表情は見えない。
「西埜女」
俺が彼女に呼びかけると、ゆっくりと顔を上げた。
額には太陽を表す赤い文様が彩られていた。目の端と柔らかそうな唇も同じように紅が乗せられ、透き通るような白い肌に神秘的な色合いを灯している。彼女は黒い瞳で俺を捉えると、たおやかに笑みを浮かべた。
西埜女は俺と同い年で、七歳からこの世界に呼ばれるようになってからの付き合いだ。
......高校生の頃には彼女に淡い恋心を抱いたもんだが、それは結局風化して親愛に変わっている。
どれだけ想ったって通じ合えない、違う世界の人間だから。
「一〇日ぶり。元気そうだな」
「主様におかれましても、ご健勝の様子でなによりでございます」
「ああ、うん」
相変わらず妙齢の女性にかしずかれるのは妙な気分だ。落ち着かずそわそわしていると、その気配を感じたのか裾で口元を隠した西埜女にころころと笑われてしまった。
明確に身分の差が出た会話をしているが、西埜女とは付き合いが長いため、場の雰囲気は悪くない。
どういう原理かは知らないが、俺の身体は今も俺の部屋にあり、精神だけがこの地に来て依代を通じて話をしている。
依代となっているのは、真っ白な鹿の置物だ。俺が持っている鹿と寸分違わない置物がこっちにもあり、それが俺のこの世界での姿だった。
「じゃあ、今日のお告げな」
さっさと面倒事を済ませてしまおうと俺は一度目を閉じた。
深く息を吸い込むと、するりと何かが入り込んでくる気配を感じた。それは全身が総毛立つような、それでいて切なくて泣きたくなるような、不思議な気分になるものだった。
これがきっと俺の中に宿る神様、なんだろうと勝手に思っている。
その気配は俺の口を操って、勝手に言葉を吐き出した。
『あすかがおかの東で、地滑りが起こる。豪雨の五日目に気をつけよ。それから、すいほうやで取れた米俵をひとつ、南風が強い日に燃やせ』
朗々とした口調は俺のものではない。それだけ告げると、すうっと気配が霧散していく。
「......以上」
「はい」
俺が言った言葉を、西埜女はさらさらと紙に書きつけていく。和紙に筆だ。達筆なんだろうけど、この距離だと西埜女が書く文字は見えない。
地滑りの件はともかく、米俵は何のために燃やすんだろう。いや、俺が言っておいてなんなんだけど。
俺が口にする『お告げ』は意味が分からないものも多い。だが西埜女は真面目に聞いているので、おそらくはちゃんと実施しているのだろう。
俺の言葉を書き終わった西埜女は紙を脇へ避けると、お告げに対するお礼の口上を口にした。ここまでは一連の流れだ。
西埜女は俺の言葉を一言一句書き写した所で、顔を上げて首を傾げた。
「主様?」
「......なに?」
「今日は珍しく沈んでいらっしゃるようですが」
優しく問いかけられても、俺は言葉が出ない。
昼間社長に言われたことが心に引っかかっていた。
俺がこの異世界に来るのはほとんど義務だ。
異世界の名は、豊葦原。そして俺が予言を伝えているのは瑞穂国という、水資源が豊富で穏やかな気候の国だった。
ここは古来からの神々が土地を統べる世界で、どこでどう知り合ったかは知らないが、その昔うちのかなり古いご先祖様が、豊葦原の一番偉い神様と契約を交わした。
その頃うちの一族は、地域で有名な地主だったらしい。
自分の持っている田畑に豊作を与え繁栄させる代わりに、豊葦原に住む民族の国々にうちの一族が一〇日に一度、神の御使として予言を伝える。
これが契約の内容だ。
ところが、契約の元になった豊富な資源を持った田畑は、戦時中のごたごたで国に召し上げられてしまった。今ではかつての栄光もなくなって、単なる一般家庭へと成り果てたのに、未だに神の御使なんてやってる。
元々うちの畑だったってところは、デカいショッピングモールができていた。......この不況のご時世、結構繁盛してるらしい。
他人の土地となった場所を繁盛させてその代わりに神の御使を続けているのは、この契約を破棄、もしくは内容を変更する方法を俺達が知らないからだ。
予言は必ず行われなくてはならない。でないと天罰を下されるらしい。
さらに制限もいろいろとある。
日本の神様と繋がりがあるらしく、国内からでなければ豊葦原には行けない。戦時中は召集されて海外遠征に出た者が、時には長期旅行で日本を離れた者が、契約を果たせずことごとく天罰を食らったらしい。
憶測でしかものを言えないのは、誰一人戻ってこれなかったからだ。だが、そのことを考えてみれば推して知るべし、と祖父からも父からも散々脅された。
そんな迷信なんて笑う余裕はない。実際幻なのかもしれないが、俺は異世界に来ている。まだ若い身空で天罰なんかで死にたくなかった。
大学時代の旅行は、問題ないように日数を計算して行っていたが、出向となるとそう簡単に日本には戻ってこれない。
絶対無理だ。
俺は知らず知らずのうちにため息をついていた。
「嫌な事でもございました?」
問いかけられて、はっとした。
まずい。一応予言は終わらせたものの、まだ俺の精神は豊葦原に留まっているんだから、ちゃんとしないと。
「なんでもない。仕事だって、上手くいってるし、うん。何でもないよ」
気ばかり焦って、なんだかより怪しまれるように早口になってしまった。
だが西埜女はそんな俺を追い詰めるわけでもなく、優しげに微笑む。
「そうですか? ではこの間お話されていた、難しい契約も上手くいったのですね」
「あ、ああ。今日契約が無事に取れたんだよ」
「まあ、それはおめでとうございます」
「うん。......マジ俺頑張ったし、もっと褒めて」
「さすがは主様。どんな困難であろうとも、主様にかかれば乗り越えられましょう」
手放しの賞賛は身体の芯が疼くほどに気持ちがいい。
内視鏡に入る精密機械を作って売っている、なんて言っても彼女には通じない。それでも彼女は手放しに褒め、俺が落ち込んでいるときには親身になって相談に乗ってくれる。
でもそれは、俺がこの世界で神にも等しい存在だからだ。
ともあれ、俺は悩んでいたことは蓋をし、散々苦労したことを彼女に話して持ち上げられることで、存分に自尊心を満たした。
鹿の置物に上司が良い人で、とか、取引先の親父がわがままで、なんて愚痴られる西埜女の心境を知りたい気もするが、彼女は黙って頷いて聞いてくれるからに、ついつい甘えがちになってしまう。
「それじゃそろそろ帰る。話を聞いてくれてありがとう。また今度な」
散々自慢した俺は、少しだけすっきりとした気持ちになれた。それに感謝して戻ろうと気を練り始めると、なぜか西埜女の表情に陰りが生まれる。影はすぐに消えていつものように「はい」と頷かれたが、それがなぜか気になった。
「なんか俺に話あるなら聞くぞ」
基本的に西埜女は自分の話はしない。彼女の世界のことだって、俺から問いかけて教えてもらったことばかりだ。
だから、彼女が俺に言いたいことがあるなら聞きたかった。
「......いえ。何もございません。お気遣いくださいましてありがとうございました」
儚く微笑んだ西埜女にやんわりと隔たられ、俺は腑に落ちないものを感じながら豊葦原を後にした。
目に浮かんだ明かりが徐々に薄くなり、俺の部屋の壁が重なっていく。壁にかかった時計の秒針が進むのを、意識して追いかけた。やがて完全に視界が部屋の中に切り替わった所で、俺は伸びをして後ろに転がった。
「......うーん......」
蛍光灯の揺らめきのない明かりを見つめていると、目がチカチカしてくる。瞳を閉じて大きくため息をついた。
身体全体をねっとりとした泥のような倦怠感が覆う。精神が異世界に飛ぶだけで、かなりの負担がかかっているのがわかる。
「とりあえず飯、食おう......」
ぐるぐると空腹を訴える腹に、立ち上がった俺は部屋を出た。
「あ......」
「あら」
俺がドアを開けたのと同時に隣の部屋のドアも開いて、姉の伊津美が出てきた。
肩に付くまでのセミロングの茶髪は、軽くウェーブをかけて動きを出している。俺と同じ二重の猫目は甘いピンク色で彩られ唇はグロスがてらてらと輝く。シャツとジーンズというなんともない普段着だが、身内ながらスタイルは悪く無いと思う。
きちんとスーツを着こみ、髪もオールバックにすると俺のほうが年上に見られるぐらい若作りな姉は、当年三六歳。二十歳で生んだ高校生の息子を持つ専業主婦だった。
「あんたも今終わったの?」
「うん」
「タイミング良かったね。母さんが料理用意する手間が省けるわ」
嬉しそうに笑った姉は、上機嫌で階段を降りていった。
「たまには手伝ってやれよ主婦......」
完全に降り切ったのを確認してからぼそりとつぶやく。
身長も一六〇センチに届かない姉さんは見た目も女性らしく優しげだが、その裏に潜む鬼がいるのを知っている俺は、けしてあいつには逆らわない。
中学生の多感な時期に反抗期で喧嘩を吹っかけたら、関節技を決められてバリカンで額から後頭部まで一気に刈られた。逆モヒカン!と爆笑された俺は泣く泣く坊主にして、髪が伸びるまでのしばらくの間、野球部とあだ名が付けられた。帰宅部だったのに。
俺が遅れて一階に降り立つと、ダイニングは和気あいあいと人に溢れていた。