一陣-5
「志那都比古神様と、対話、ですか......?」
「そう! 直接話しできる方法があれば知りたいんだ。うちの文献漁ったんだけど、見つからなくて」
一〇日後。俺はいつものように豊葦原に来ていた。お告げを済ませた後の時間に俺が問いかけると、西埜女は驚いた表情を浮かべる。
志那都比古神とは、俺を依代としている神様の名前だ。風の神様で、お告げは天候に関するものが多い。姉の伊津美は水の神様の御使で、こちらも天候に関する予言が多かった。
「直接お伺いなされているのではないのですか」
「いや? たぶん俺の身体を通して直接言ってるんだと思う。予言は俺が話してないし」
「そう、だったのですか......」
何か思案顔で呟いた西埜女は、きゅっと赤袴の膝の部分を握り締めると顔を上げた。
「主様がいらっしゃる背後に、ご神体がございます」
「俺の後ろ?」
っていっても俺は振り返られない。当然だ、今の俺は置物なのだから。
西埜女は三つ指をついて俺を見つめるとにっこりと微笑んだ。
「古来より、御使様はこの豊葦原に御身を持ってお越しになることが出来ると聞いております。今のわたくしと主様が会話しているように、主様がお越しになれば、ご神体の中におわす志那都比古神様と対話することも叶いましょう」
「......俺自身が、豊葦原に行く?」
西埜女の提案に俺は息を飲んだ。
確かにうちにある古い文献には、生身で豊葦原に行く方法が書かれている。さらには、行って帰ってきたご先祖様から現地で使う特殊な能力である神通力の使い方、鍛錬の方法は伝わっているのだ。
最後に豊葦原に行ったと記録されているのは明治時代の終わりだ。それ以降は戦争もあり、三科家の人間自体が少なくなってしまって記録にない。
「ここ百年ほど、御使様が瑞穂国、ひいては豊葦原にお越しになったことはございませぬ。主様がいらっしゃれば国を挙げて歓迎いたしましょう。基本的にお社には巫女一人しか入れませぬし......皇族の方々も主様のご来訪をお喜びになります」
西埜女はなぜか乗り気で、身を乗り出して熱心に俺に薦めた。白くなるほど握られた手と、少しだけ頬を上気させている赤のコントラストがやけに鮮やかに見えた。
「でも、俺そっちじゃまともに生活が......」
「存じております。不肖ながらこの西埜女、主様の御身のため誠心誠意お世話を致したく思います」
「っ......あ、あはは。やだなあ西埜女。意味わかってるのかよ」
「もちろんでございます」
ゆっくりと西埜女は頭を垂れた。俺はそれに西埜女の本心を悟って鼓動が跳ね上がる。
最後に豊葦原に行ったご先祖様は、日記という形で豊葦原のことを書き記していた。
曰く、豊葦原の食物は、一口も飲み込むこと叶わず。と。
これが単にまずくて食べれないという話ならわかるが、どうやら基本的にこちらの人間は食べられないものらしい。米も青野菜も果物も、こちらの世界にあるものと全く一緒だが、どうしても飲み込むことができないのだ。水は問題なく飲める分、食べれないのがきついとそのご先祖様は嘆いていた。
まあ基本的には違う世界の人間ということだろう。
では、どうやって三科家の人間が豊葦原に滞在することが出来たか。
もちろん短期間で飲まず食わずで帰ってきた者もいるようだが、長期間、時には一年以上も滞在したことが文献に残っている。
その人たちは、自分の巫女と実態のない夢幻の中で情を交わし合ったことで、巫女から生命力を分け与えてもらい過ごしたのだ。
言葉を濁して書いてあったが、要は情事のことだと初めて知った中学生時の俺の衝撃は強かった。そのときは西埜女にほのかな恋心を抱いていたし、女の子とそういったことをしたこともなくて、凄まじく想像力を掻き立てた記憶がある。
巫女は男が御使のときには女がなり、女が御使の時には男が巫女ととなるのは、そんな理由あるらしい。
現に俺の巫女は西埜女で、伊津美の巫女は男だ。
今更その昔の甘酸っぱい気持ちが駆け上がり、俺はしばらく何も言えなくなってしまっていた。
「主様?」
「西埜女、その、好きな人とか、いないのか......?」
西埜女の呼びかけに我に返ってそっと尋ねる。
いくら精神だけとは言え、初対面の男とそんなことをしなくてはいけなくなる西埜女の負担は、計り知れないだろう。......いや、しなきゃいいだけなんだろうけど。二三日ぐらいなら飯抜いたって平気だし。
「主様のお情けをいただけるのであれば、これ以上ない幸せでございます」
一瞬だけ西埜女の視線が揺らめいた。それを隠すようにことさら明るく声を弾ませる西埜女に、俺は中学生の俺の恋心がヒビが入って砕けていく。それは憧れていた隣の家のお姉さんが結婚してしまったときのような、そんな柔らかい気持ちだ。
......ま、ちょっと残念だけど。住む世界が違うし。俺だって、なんかそういうことになった人とこうやって冷静に会話なんて多分できなくなるだろうし。
「じゃあ、マジでそっちに行こうかな」
「は、い」
西埜女の表情は複雑そうだった。口元には笑みで眉間には薄いシワという、喜びと困惑が混じり合った顔に、俺は思わず笑ってしまう。
「大丈夫、二日ぐらいなら水だけでもなんとかなるって。俺の飯のことは考えないでいいから」
「そ、そんなわけには参りません!」
「いいから。そうだ西埜女、弟がいるんだよな。最近話聞かないけど、瑞穂国に行くのなら会ってみたい」
姉と弟という組み合わせが俺と伊津美と同じで、伊津美と喧嘩したときには西埜女に相談もしていた。そのことを思い出して尋ねると、西埜女は残念そうに表情を曇らせて肩を落とす。
「あの子はもう都にはおりません。どこに行ったのやらわからぬ状態で......。おそらくは元気でやっているものと思いますが、便りの一つも寄越さず、薄情なものです」
「......そ、そうなんだ。まあ男だとそういうこともあるよな」
あまりに西埜女が淋しげに微笑むので、あたふたとフォローしていると、西埜女は改めて畏まって俺を見上げた。
「どうぞ主様がお越しになる時をお待ち申し上げております」
「ああ。......そんなに、盛大になにかはしなくていいから」
日本では単なる一般人でその感覚で生きている俺はそう釘をさすと、西埜女は晴れやかに笑う。
「承りましてございます」
......なんか、ちょっと信用できないな。
俺としてはまずは神様と話をして、それで役目を早く切り上げることができるか聞くだけのつもりだし、まあ半日もあれば要件は言えるだろう。
そんな軽い気持ちで、俺は豊葦原に行きを決めたのだった。
向こうに行くための条件は、御使であることぐらいしかない。いつもと違う儀式が必要になるが、面倒な準備物はないのでいたって気が楽だ。
何度か通うことを念頭に置いて、俺は土曜日の朝から準備に取り掛かった。
豊葦原に行く方法を写したノートと和紙を数枚。あとまち針。自分の血で儀式を行うためだ。
カッターでもいいんだが、やっぱり傷つける範囲は小さいほうがいい。
「母さん、まち針ある?」
部屋の中にいろいろ準備を終えた俺は、そう言って一階のリビングを覗いた。
「あるけど、何に使うの」
「内緒」
「後でちゃんと返してね」
母はまち針を取りにリビングを後にした。
父は釣りに出かけ、じいちゃんも福祉のデイサービスで外出中だ。だから母さんしか居ないだろうと思っていた俺は、リビングの大画面でゲームをする甥っ子を見つけて、足をそちらに向ける。
絨毯に腹ばいに寝そべってガンシューティングを楽しんでいる知春に俺はそっと近づくと、薄い尻に足を置いてぐりぐりと踏みつけた。
「あっ、何すんだよ幸兄!」
「ゲームぐらい自分ちでやれよ」
「やだよ、うちのテレビ小さいし......あっ、あ! マジでやめて!」
尻から腰、そして背中へと踏みつける位置を変えていくと、その振動のせいで操作がしにくいらしく、知春から悲鳴が上がる。
お、あともう少しでゲームオーバーだな。
ニヤッと笑った俺は、しゃがみ込むとふっと知春の耳に息を吹きかけた。
「ぎゃあ!」
大げさな悲鳴を上げた知春はコントローラーを放り出して耳を抑える。その瞬間に画面には「To be continued?」と浮かんでいた。
「はは、ざまあ」
「幸兄ひどッ!」
ぶつぶつと俺に対して悪態をついても、知春は何事もなかったようにゲームを再開している。単に俺がじゃれただけだとわかっているから反応もあっさりしていた。
俺は母さんが戻ってきたのを見て知春から離れる。
「今日は昼飯いらないから」
「そう。出かけるの?」
「うん」
よし、これで俺が居なくても問題ないだろう。声を掛けずに出かけることはちょくちょくあるので、不在でも出かけたなぐらいにしか思わないだろう。
受け取った針山を手に、俺は二階の自分の部屋に戻った。