四陣-1

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 夢を見た。
 家のリビングで泣いている伊津美の姿が見える。意気消沈したような父の姿もある。母さんはどこか事情を飲み込めていないような表情で、ぼんやりと天を見上げていた。
 リビングのテーブルの上には桐の箱が置かれている。その上には、ばらばらになった木の破片が散らばっていた。尖った角と、細い脚の先には見慣れた蹄。それらには心当たりがあった。
 俺の持っていた鹿の置物だ。大事に扱っていたはずなのにどうして壊れているんだろう。
 しばらく考えてその原因が思い当たった俺は、かすかに痛みが走った胸を抑える。
 豊葦原に残ることを選んだからだ。だから俺の依代でもあるはずの鹿が割れた。確信はないけど、そう思った。
 もう二度と会うことができないと思うと、俺はみんなの顔を良く見ておこうと考えてそっと近づく。なのに足を踏み出すたびに、なぜか家族がいるリビングが遠ざかっていった。
 慌てて走りだすけど、その距離は離れるばかりで近づかない。
 悲しくなって手を伸ばすと、一人みんなにお茶を淹れていたじいちゃんが、視線を巡らせて俺の姿を捉えた。
 驚いたように目を丸くした後、少し悲しげに笑って何かを告げた。けど声は聞こえない。
 なに言ったんだよじいちゃん。......ねえ? ねえってば。
 問いかけに答える声はない。その大事な風景は俺の目には見えないぐらいに小さくなり、闇に包まれていった。次にぼんやりと見えてくるのは、明かりのない天井。
「......今のは」
 俺は目尻を伝った雫を拭う。左側から障子越しに日差しが入ってきているのがわかった。自分の部屋ではないことは十二分にわかっていたことだけど、見知らぬ和室に酷く落胆した俺の目からは更に涙が溢れた。
 夢だったのか、それとも、今現在の向こうの状況なんだろうか。少し考えて、答えの出ないことを考えるのは止そうと目を閉じる。
 俺はもう、向こうには戻れないんだ。
 それを言い聞かせると俺はゆっくりと起き上がった。いつの間にか、白い着物を身に付けている。
 視線を巡らすと少し離れた位置に男が正座していた。俺を軽々と抱えた、経親に時臣と呼ばれていた男だ。
「おはようございます」
「......おは、よう......しのかは? あとどのぐらい俺は寝てた」
 口頭一番にしのかの安否を気にかける俺に、その男は優しげな表情を緩める。
「御霊は天に還っておりません。ですか身体を包む瘴気は未だ消えず、身を苛んでおります。御使様はここに運びいれてより八時間ほどでお目覚めになられました」
 一番聞きたかったことをすぐに教えてもらった俺は、落胆していた気持ちを切り替えるために軽く頬を叩いた。
「そっか。これ以上寝てる場合じゃないな......」
「気を養うためのお食事を用意しております。お持ちしてよろしいでしょうか」
「ああ頼む。.........っと、あんたは......?」
 改めて問いかけると、男は静かに俺に頭を下げた。
「藤原経親様にお仕えしております、今出川時臣と申します。どうか私のことは今出川とお呼びください」
 丁寧な態度は経親よりもよっぽど好感触だ。
「じゃあ今出川。知春はどうした?」
 俺の問いかけに、今出川は一瞬だけ狼狽える。だがその戸惑いをすぐに打ち消して口を開いた。
「知春様はお力を振るい過ぎておりましたので、お休みになられております」
「そ、か......」
 俺としのかを助けるために神通力を使ったんだ。さぞかし疲れただろう。
 昨日まで散々俺に嫌味なことを告げていた経親が姿を見せないのは少し気にかかった。それを今出川に問いかけると「お休みになられています。お呼びいたしますか」と返される。
 別段あの嫌味な男と話すこともないかと思い返して、俺は首を横に振った。
 知春もここで巫女を見つけていたのなら、きっと夢幻の中で交わってるんだろう。......あいつの色恋の話は聞いたことないし、色気より食い気だったからどうせ童貞だったろうに、大丈夫だったんだろうか。
 ついくだらない心配をしてしまうが、一週間以上こちらに滞在したのであればもう既に何度か致しているだろうことに気付いて少し落ち着かない気分になる。
 ......ああもう、考えるのやめよ。
「それではお膳をお持ちいたします」
「ああ」
 部屋を出ていく今出川を見送りながら、俺がこれからしなければいけないことに火照りそうになる頬を手で抑えた。
「しのかと、セックス......」
 夢で交わったように、現実でも俺はしのかと身体を重ねなければいけない。経親はそうはっきりと言った。しのかがどんな状態であれ、夢の通りに俺が受け入れることで気を巡らせてやったほうがいいはずだ。
 ちょっと逆を考えてみるが、ありえないことに首を振る。あんな太い腕の、ごつい男を抱ける気がしない。
 となると。
 いかがわしい想像から目を背けたくなるのを堪えて、俺は大きく息を吐いた。今出川が戻ってくるまでに変に高鳴る胸の鼓動を抑えようと深呼吸する。
 精神世界で交わったものの、実際に触れ合うことはこれが初めてになる。しかも今回はしのかからの積極性は考えられない。
 それを考えると複雑な心境だった。
「お待たせ致しました」
 戻ってきた今出川が俺の前に膳を置く。俺はそれにすぐさま箸を付けた。どれだけ頬張っても飲み込んでも、やっぱり吐き気はないし美味しい。
 それは俺が完全にこの世界に馴染んでいたことを意味していた。
 食事を終えた俺は、目を閉じて座禅を組んで身体の中を巡る気の流れに意識を傾ける。......いつもより少ないが、眠ったことと今食事を取ったことで、気の巡りに異変は感じなかった。
 志那都比古の神体が収められた場所と近いせいか、いつもより回復が早い気がする。
 これなら気をつけて生気を分けていけば、問題がなさそうだ。
 目を開くと今出川に凝視されていたことに気付いて、俺は男の顔を見返した。目がばちんと合うと、今出川は慌てて頭を下げる。
「不躾に申し訳ございません」
「いいけど。......なに?」
「いえ......さすがに、知春様と似ていらっしゃるな、と」
 俺が知春と似ているというよりは、知春が俺に似ていると言いたいところだったが、男が俺の顔を見つめて少し気落ちしたようにため息を付いたのを見て、なんとなくやめておいた。
「それより早速で悪いけど、風呂を用意してくれないか?」
「西埜風殿の元に向かわれるのですか」
 静かな眼差しを向けられて、視線をそらしたまま頷く。風呂の用意としのかの元に行くことがイコールになるということは、今出川は俺がどうやってしのかを助けるかを知っているのだ。
「......それではこの薬をお召しください」
 男は目を伏せながら、着物の合わせ目から紙包みを取り出して俺の前に差し出した。それを受け取って開くと、白っぽい粉が入っている。
「これは?」
「心と身体を解す薬となります。今飲まれておきますと、上がられた頃には薬が効いていることでしょう」
「......」
 上品な言葉で濁していたが、その意味がわからないほど俺は初心じゃない。媚薬かその類のものだろう。
 後ろを使うことを考えれば、強制的にでも身体をその気にさせておくことは悪いことじゃない。......筈だ。
「さんきゅ」
 小さく答えて俺はその薬を喉に押し込んだ。差し出された白湯で流し込んで喉を鳴らす。漢方のような匂いが鼻に付いた。
「それでは、湯殿にご案内いたします」
 恭しく頭を下げられた今出川に手を差し出され、俺はその手を取りながら立ち上がった。
 廊下は無言で歩き脱衣所に案内される。今出川は中まで入って来なかった。服を脱いだ俺は、浴室を覗き室内のもので少しほっとする。
 壁や床、天井は檜で出来ていて、浴槽にはなみなみと湯が張られている。造りは日本にある風呂と同じで、なんとシャワーまで備え付けられていた。
「すげー......」
 シャワーがどういう仕組みになっているのか気になったが、急激にどくんと跳ね始めた鼓動に、俺は慌てて身体を洗おうと周辺を探す。
 出入り口の側に置かれた桶と、そのすぐ側に置かれた箱があった。他にはなにもないので箱を開けてみると中に小さな箱が幾つか入っていた。一つ目は石鹸だった。もう一つは良くわからない粘度の高い液体。それからもう一つ。
 手に取ったその手の平より一回り大きい箱の中には、それはまあ、アレな物が入っていた。取り出してマジマジと見つめる。
 少し重い。ずっしりとしているが木目が見えるから木で出来てるんだろう。黒々と卑猥な男性器に俺は途方に暮れた。
 これで、自分で解せってことか......?
「......わぁお......」
 なんとも言えなかった。それをじっと眺めていると、浴室のドアが叩かれて俺は大げさに身体を飛び跳ねさせる。
「御使殿」
 かけられた声は、今出川のものではなかった。何も答えずにいると、がらりと引き戸を開けられる。そこに立っていたのは、着物を着崩した経親だった。薄紫色の着物は寝着に使っているものなのだろう、胸元は肌蹴られており厚い胸板を覗かせている。
「なんだよ急にッ! こっち見んな!」
 咄嗟にしゃがみ込んで身を隠した俺を見て、経親は鼻で笑う。
「時臣からご準備をされると伺ったので。御使殿の御身を下々の者に触れさせるわけにはいきませんから、俺がお手伝いいたします」
「いぃいい! いらない!」
 俺は手にしていた張り型を経親に投げつけて後ずさった。手の甲でそれを防いだ経親は、不機嫌そうに鼻の頭に皺を寄せる。転がり落ちた性具に大きくため息を付いた。
「西埜風を助けたくないのですか?」
「助けるよ! だから俺一人でそれをやるっつってんの!」
 経親から離れるために俺は奥に逃げ込んだ。風呂に飛び込んだ俺は身体を隠すようにしゃがんで大声で叫ぶと、舌打ちをした経親が大股で近づいてくる。着物が濡れるのも構わずに湯船に手を突っ込むと、俺の腕を強く掴んで引き寄せた。
「貴様一人に任せていては終わるものも終わらない。......西埜女だけでなく、ようやく姿を現した西埜風までも死なせてたまるか」
 今までも慇懃無礼だったが、とうとう繕うことをやめた経親に風呂から引きずり出された。床に腰を強かに打ちつけた俺を見下ろし、男は一言告げる。
「さっさと覚悟を決めろ」
 ねめつけられた俺は経親を睨み返しながら奥歯を噛み締めた。


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