涙の人2-1

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 その日、マスターの友枝が出勤してくると、カウンターの上に見慣れぬものが置かれていた。
 白い厚紙で作られた箱には一部に切れ目が入っており、その前には筆談用に使うメモが置かれている。
 そして、箱にはこう書かれていた。
『ご意見箱』
(ご意見......?)
 マスターであり、カフェのオーナーでもある友枝は首を傾げる。
 店内では声を発してはならず、というルールまで設定したのは他ならず自分で、このカフェは自分の城だ。
 意見を収集したところでそれを反映させるかどうかは自分の加減一つなるし、これで常連客の要望なら叶えたいと思わないでもないが、匿名で投稿されるのは好みではない。
 一体誰がこんなものを。と箱の前で停止した友枝が考えていると、誰かがとんとんと友枝の肩を叩いた。
 振り返れば、唯一の正社員である飯田である。
 一重でそばかすが散った青年は、見た目が地味で行動も控えめだ。
 物腰が柔らかく、動作一つ一つを物音を立てずにするので、友枝は気に入っている。
 アルバイトのまとめ上げや、友枝がいないときのカフェの開け閉めもこの青年が行っていた。
『マスターが用意したものではないんですか?』
 さらさらと書かれた紙にはそんな言葉が踊る。
 友枝は首を横に振った。
 こんなものがなくても見送り時に客の要望は聞いている。現に、最近新しくパフェをメニューに加えた。
 物静かな空間でパフェを食べながら寛ぎたいというリクエストがあったからである。
 友枝が首を横に振ったことで、僅かに飯田が顔を顰めた。
 くるりと向きを変え、店内を見回すと一人のアルバイト店員につかつかと歩み寄った。
 浅木、という少年だ。
 近くの大学の学生で、この店で働きたいと熱心に通ってきてくれた子で、真面目で高評価で勝手なことをするような子には思えなかった友枝は少し目を見開いた。
 浅木は友枝と飯田の顔を見て、少しだけ顔色を青ざめる。
 飯田が発声の制限のない事務所に浅木を連れ込もうとしているのを見て、友枝はさらさらとメモを書いた。
『今は、仕事中です。後で話を聞きます』
 仕事に戻りなさいと目で指示をすると、すぐに理解した浅木と飯田は手を上げていた客の元へと急いだ。
 10人も入ればいっぱいになる店内では従業員は二人も入れば十分で、友枝はカウンターの中に入るとご意見箱を手に取った。
 持ち上げた際に、かさりと音がする。
 既に中に何か入っているようで、友枝は軽くため息をついて中を開けた。
 中に入っていた紙は全部で6枚。結構多い。
 一つ一つを丁寧に開いていく度に、友枝の眉間に深い皺が刻まれた。
 跡が残ると自分で眉間に指を当てて伸ばすが、すぐに皺を寄せてしまう。
 友枝が自分で作ったルールを破って唸りたい気分になっていると、ドアが開いて新しい客が入ってきた。
 咄嗟に営業スマイルを作った友枝はそのまま動きを止める。
 スプリングコートにオーダーメイドと思われるスーツ。スーツの広告モデルがそのまま飛び出してきたような長身に甘いマスク。目が合うとにっこりと微笑まれる。
 聞いてもいない歳は28だと言われた。好みは自分より年上で壮年の男性だとも。
 彼が好きだと言った薄いオーデコロンは自分も気に入っていたものだったが捨て、今は別のものをつけている。
 歳相応に見せていた薄く白髪交じりの頭も嫌々ながら染めた。
 それもこれも、彼が自分を好きだと言ったからだ。
 近づいてきたその青年は手を滑らかに動かした。
『こんにちは。今日は友枝さんに会えて光栄です』
 にこにこと微笑んだ青年は、手で自分の感情を伝えた。
 そんな相手に、友枝は一度目を閉じると、柔らかく微笑み返す。
『お席にご案内いたします。どこかご希望の席はございますか?』
 ややぎこちなく手を動かす。大学の頃に手話を学んだが、ここ20年近く使ったことはなかった。
 だが、初めて彼がここに訪れたときに手話を使ったのを見て、同じように返したのだ。咄嗟に思い出した自分の記憶力に拍手したい気分だった。
 それが失敗だったと、今にして思う。
『ここがいいです。友枝さんとお話したい』
『申し訳ございませんが、当店のカウンターには席がございません。ご案内いたします』
『僕はここがいい』
 ごねる青年に、友枝は知らず知らずのうちに眉間に皺を寄せていた。


 青年は、ベンチャー企業の社長でもある。
 大学生の頃に、携帯向けのミニゲームをいくつも開発して卒業と同時に友人と会社を設立し、現在はアプリソフトの開発で順調に業績を伸ばしているらしい。
 基本的にこのカフェでは客と会話をする機会は殆どない。
 せいぜい見送り時に外に出たときに一声かけるだけだ。
 なのに詳しくなったのは、青年が手話の中に自己紹介を含めてくるからである。
『いいでしょう? 僕は喋らないし』
 そうぬけぬけと告げてくる。
 青年は喋らない。というか、喋れない。
 聴覚障害二級の認定をされ、障害者手帳も持っている。
 それは生まれつきのもので、彼は『音』を聞くことが出来なかった。
 だが、そんな障害を吹き飛ばすほどに生命感に溢れ、そして通常の人より努力をして成功と言って差し支えない道を歩いている。
 自分の欠点を、長所として捉えてそれを隠すこともしなかった。
 その性格も性質もとても好ましいものだと思う。
 だが、友枝はそんなことを一切伝えるつもりはない。
『このカウンターは飲食を出すためだけのもので、席をつけることはありません。嫌ならどうぞお引取りください』
 青年を外に促そうとカウンターから出ると、近づいた友枝の手を青年が掴んだ。
 じっと、無言で見つめてくる。
 青年の手は『口』だ。
 手を掴まれると、自分も青年も会話が出来ず意図がわからない。
 何をするのだろうと怪訝な面持ちで友枝が見つめると、青年はカウンターの上に置かれたメモを取った。
 それは、意見箱に入っていた要望書だ。筆記跡は全て同じ。
 『カウンター席を作ってください』といった要望だ。
 そこに青年は言葉を付け加える。
『貴方と向かい合いたいだけです。僕を見てください』
 握った手は暖かく、少し緊張しているのか汗を感じられた。
 友枝が薄く唇を開いた時に、客の一人が席を立った。
 視線の端でそれを捕らえた友枝は、そっと青年の手を掴んで外させる。
 立ち上がった客は初老の女性で、杖をついてゆっくりと歩いてきていた。
 タイミングを合わせてレジに向かおうとすると、その女性は青年の隣でぴたりと足を止める。
 どうしたのだろうと見ていると、カウンターにある要望書だった。
 女性は一つ手に取ると、その場にあったペンでなにかをさらさらと書き込み、レジまでやってくる。
 友枝と目が合うと、にっこりと微笑んで手渡してきた。
 丁寧に折りたたまれたそのメモを開く暇もなく、会計を済まし店の外へと見送りに出る。
「いつも美味しい紅茶ご馳走様」
「こちらこそ、いつもお越しくださいましてありがとうございます」
 店内で会話がないからこそ、外でする少しの会話は特に印象に残りやすい。
 丁寧に感謝を告げているとその女性はふふふと含み笑いをした。
「なにか?」
「いえ......私もカウンターチェア、いいと思うわ」
 少女のようなふわりとした笑みを浮かべると、初老の女性は立ち去っていった。
 残った友枝は少しあっけに取られながら手渡されたメモを見る。
 『私もマスターの顔を見ながら紅茶を飲んでみたいわ』
 付け加えられた言葉は、つい今しがたの女性のリクエストだ。
 思わず渋い顔になりながら店内に戻る。すると、カウンターに集まっていた客が声なく散った。
 外に出ている間にカウンターに集まっていたのだろうが、一体何のために、と僅かに戸惑っていると一人残っていた青年が振り返る。
 その表情には、喜びが浮かんでいた。
 友枝が近づくと、素早くメモが差し出される。
 受け取ってみると、全てのメモに新しくコメントが追加されていた。
『ここの席は正直良すぎて長時間滞在してしまう。カウンターで朝のコーヒーだけ味わいたい』『目で会話って、いいですよね』『通常の席が混んでいると入れないのは嫌なので、カウンターでもいいから席を増やして』
 そんな要望の数々だ。
 友枝はそのコメントを見てひっそりと驚いた。
 自分だけの時間を持つ、がこのカフェのコンセプトだ。
 長時間寛いでもらうための工夫を施してあるため、朝の忙しい時間の来店や、混雑時の一時席なんて想定していない。
『みんな、貴方の店が好きなんです』
 嬉しそうな表情で、青年が手で語りかけてくる。
 戸惑いを隠せずにいた友枝は、わずかに考え込む。
 やがて、軽く息を吐きながら『考慮します』と手を動かした。
 ここは自分の城で、自分は王様。従業員は城を守る騎士ならば、客は国民だ。
 一人の国民のわがままを聞くことは出来ないが、数が多いなら話は別だろう。
 よりよき場所を作るためには明主であるべきだ。
 そんな風に導き出した友枝の答えに青年は感動したようにふるふると震え、何を考えたのかくるりと振り返った。
 その視線の先には、来店していた馴染み客と従業員の二人。皆が皆、青年の表情を見守っている様子だ。
 なんだろうと訝しがってると、青年が彼らに対してグッと親指を突き出した。
 途端にわっと上がる歓声。
 ......。
 それは一瞬のことだったが、友枝の眉間に大きく皺を刻んだ。
 客も従業員もしまった、という表情をする。その顔を一瞥した友枝は大き目の紙を取り出し、そこにマジックで「ペナルティですよ」と手書きしてそれを掲げて見せた。
 みんな肩を落とすかと思いきや、眉尻は下がっているものの、口元には笑顔が浮かんでいる。
 ちょっと、面白くない。
 友枝はペナルティとして千振茶を振舞った。健康にはいいが、苦いお茶だ。
 特にカウンターから離れようとしない青年には3杯以上も振舞ったが、それでも彼は楽しそうにしていた。


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