涙の人2-2

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 朝七時から夜八時までの営業時間を終えると、友枝はそこでようやく浅木から意見箱の真相を知った。
「昨日柏野さんからマスターに預かったって聞いて渡されたから、俺設置したんです。マスター、昨日休みだったし......ちゃんと確認しなくてすいません」
 閉店を終えた店内で、浅木少年は恐縮したように何度も頭を下げた。
 会話に出てきた柏野はこのカフェの常連客だ。
 実は、友枝が会社勤めしていたころの後輩にもあたる。
 仲も悪いわけではないので、時折連れ立って飲みにいくこともあった。
 浅木にはそんな関係だとは伝えていなかったが、柏野が漏らしたのだろうと肩を竦める。
 柏野が浅木を気に入り、からかっていることは知っていたが、よもやそこまで話をするまで親密になっているとは思わなかった。
 この分だと、カフェ以外でも度々会っているようだと見当をつける。
「まったくあいつは......」
「すいません......」
「いや、浅木くんが謝ることはない。柏野は悪い大人だからね。染まらないように気をつけなさい」
 親切心で告げたつもりだったが、浅木は弾かれたように友枝を見上げ、次の瞬間から徐々に頬を赤く染めていく。
「染まる、だなんて、そんなつもりは......ただ」
「うん?」
「涙を、拭いただけ......っです。俺......」
 そう告げると、浅木は真っ赤になった顔を伏せてしまった。
 意味がわからない友枝は「そう?」と軽く頷くだけで留まり、帰宅するように促す。
 もしここで友枝が柏野がどこで泣いたのかを聞くことがあれば、浅木の方が泣きそうになっていたに違いない。
 柏野とのベッドでのことを思い出していた浅木は、どうしようもなく挙動不審に陥っている。
 そんな心情を知らない友枝は、大事な従業員の様子を心配しながら、一緒に従業員出口から外に出た。
「あっ」
 浅木の短い声に、鍵を閉めていた友枝は顔を上げた。
 見れば、街灯の下に男が二人立っている。すぐに知り合いだとわかった。
 浅木はそのうちの一人に駆け寄った。
「こんばんは」
 にっこりと微笑んだ柏野は、浅木の頬を軽く撫でると友枝を見て軽く一礼した。
「今日はサボりに来なかったな」
「サボりだなんて人聞きが悪い。鋭気を養いに行ってるんですよ」
「どうだか。それで閉店後にどうした」
 友枝が何気なく尋ねると、浅木が戸惑ったように見上げてくるのがわかった。
 柏野は微笑んだまま、すうっと目を細める。隣に立っていた浅木の腰をそっと抱き寄せた。
「ぅわっ」
 浅木は驚いた表情で柏野の顔と腰の手を見比べているが、嫌がる素振りは見せていない。
 だが友枝は少し顔を顰めた。柏野はそれなりに酸いも甘いも噛み分けた男で、友枝には浅木少年がすっかり手篭めにされているように見えたのだ。
 からかうにしても度が悪すぎる。
 注意すべきかと考えていると柏野が口を開いた。
「少し、浅木くんに用があったもので。......結城さんも、友枝さんに用があるんですよね」
 答えた柏野はくるりと視線を向けて、ゆっくりと口を動かした。
「はい。ともえださんに、あいに、きました」
 微かに不明瞭な声ながらも、十分に聞き取れる言葉に、友枝はぽかんと口を開けた。
 柏野の隣に立っていたのは昼間、カウンターに椅子を用意しろと要望していた青年で、友枝は初めて彼の声を聞いた。
 声は出せても喋れないと思ってた。
「じゃあ、友枝さんまたそのうち。さ、行くよ浅木くん」
 柏野は小さく笑うと、さっさと踵を返した。もちろん浅木の腰を抱いたままだ。
「え、おい。柏野」
「か、柏野さん?」
 強制的に促されて浅木は歩き出していた。
 柏野の手が体のラインをなぞり、酷く密着して男がなにか囁いているのが見える。
 それを見た友枝が追いかけようと足を踏み出したところで、強く腕を掴まれた。
 視線を向ければ、切なそうな眼差しを向けてくる青年がいる。
「ちょっ、ま、マスター! おやすみなさい!」
 少し離れたところからそんな浅木の声がかかり、すぐに遠ざかるエンジン音が聞こえた。
 残ったのは夜の静音。
 友枝はゆっくりと自分の腕を掴んだ青年を見つめた。
「離していただけませんか」
 ゆっくりと、青年に理解できるように唇を動かす。
 難聴の者は読唇術を身に付ける者が多いと聞く。
 柏野は青年、結城がそれを使えるのを知っていたのだろう。
 交流もしにくいカフェの客なのに、意外な横の繋がりを知って友枝はなんとなく舌打ちをしたい気分になる。
『ここで待っていれば、友枝さんに会えるって言われて』
 青年は、元はカフェの正面で待っていたのだという。そこをたまたま通りかかった柏野が裏側にある従業員口に案内したのだ。
 あの様子だと、浅木を迎えに来たようにしか思えないと友枝は不機嫌だった。
『それで、私に何の用ですか』
『食事でもどうかと思いまして』
 照れたような笑顔を浮かべた彼の手は、甘く囁いた。
 さて、と友枝は思考を巡らす。
 彼の好みから外れるために、少しばかり外見を変えてみたものの、効果は見られない。
 カフェが営業中は、彼は大事なお客様の一人だ。ではそれ以外の時間は?
 どう考えても赤の他人という結論しか出ない。愛情を向けられても困る。
『申し訳ありませんが、お断りいたします。貴方と食事をする理由が見つかりません』
『貴方に恋する男に憐れみと思って、少し時間をいただけませんか?』
『......憐れみで、一緒に食事をされて嬉しいのですか?』
「あなたが、そばにいてくれるなら、うれしいです。あいしてます」
 よりにもよってそこを囁くか、というのが友枝の心境だった。
 しかも手は友枝の手をしっかりと握っている。
 大胆でそれでいて、自信があるのだろう。
 どんなに時間がかかっても自分を手に入れたいという思いが、青年の瞳から透けて見えた。
 そんな意思の強さは、やっぱり好ましい。だが、それが自分に向けられるというのが難点だ。
 友枝は苛立ちを隠さずに大きく舌打ちをした。普段見たことがない態度の悪さに、青年は少し目を見開く。
 見た目は少し線の細く、目元の皺と口元の笑い皺で繊細で柔和に思われやすい友枝だが、うちに秘めているものは人よりも荒々しいものだ。
 カフェを城とし、自分がそこの君主と思うほどには我が強い。でなければ、声を発してはいけないなどというルールのある店を作ったりはしない。
「食事はしねえよ」
 短くきっぱり言い放つと、友枝は青年の手を振り払った。
 滑らかに手を動かして、自分の意思を伝える。
『貴方を出入り禁止にしてもいいですが、また待ち伏せされるのは困る。ここは一つ賭けをしましょう』
『賭け』
『期間は一年間。貴方が勝ったら食事でもなんでも付き合います。恋人になってもいい』
『乗ります。それで内容は?』
 きらりと輝いた瞳を見つめて、友枝は薄く笑みを浮かべた。
『私と週に一回セックスをすること。私が受け入れても、貴方に入れてもどちらでも構いません。ただし、期間中は一切私に愛しているなんて言わないでください。私たちがするのは単なる性欲処理。その間に感情は挟みません。動物のように交わるだけです』
 青年が凍りつくのがわかった。
 これで幻滅してくれれば一番いいと友枝はこともなげに考える。
『貴方がいつ、どのタイミングで賭けを下りるのは自由です。いいですよ、今下りても』
 あえてもう始まっているのだと匂わすと、青年は強く拳を握った。
 友枝を見つめる目に見る間に涙が溜まっていく。
 ただ拒絶するよりもより辛い扱い。それがわかっていて友枝はあえて選んだ。
 青年が目を閉じると、すうっと涙が零れ落ちた。
 はらはらと落ちる涙は綺麗で、そのまま自分に対する思いも落ちてなくなってしまえばいいと思う。
 良心が痛まないわけではないが、これで自分が到底受け入れるつもりがないことが理解できただろう。
 友枝は青年が泣くのをだた黙って見つめていた。涙が止まった後も何もしなかった。
「ほてる、いきましょう」
 青年は友枝の腕を掴んで微笑んだ。瞳には強い意志が感じられる。
 微笑み返した友枝は、腕を引く青年に逆らわずに足を進めた。
 青年は、友枝と約束したとおり愛も囁かず、ただの性欲処理をするように友枝の身体を蹂躙した。


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