2月-4
俺がそれを聞いたのは、偶然だった。
「は......」
瞬きもせずに俺が見上げると、30代前半の男がたじろぐ。
「いや、だから、小野に言ってくれねえ?今辞められると困るんだよ」
せめて4月ぐらいまでバイトを続けて欲しいんだと告げた男は、和臣のバイト先のコンビニの店長だった。
母の買い物の手伝いで出かけた近所のスーパーで、偶然で会った。
直接話したことは殆どないが、和臣を迎えに行く際に会うので、店長とは顔見知りだ。
買い物をしていた際に目が合ったので、軽く会釈して通り過ぎようと思ったときに呼び止められた。
ヤツが、バイト辞めたって?......知らない。
そんなこと聞いてない。
俺がよほど驚いた顔をしていたのだろう。
店長は、軽く微笑みを浮かべた。
「まあどうしても無理なら諦めるけど......聞くだけ聞いてみてくれ。あいつ、俺からの電話でねえんだよ」
ぽんっと肩を叩かれる。
遠ざかっていく男の後姿をただ見つめて、俺は立ち尽くした。
ぼんやりとスーパーを出て、自宅に帰る。
日曜日だったから、母が家でゆっくりしていた。
「おかえりトモくん。買い物行ってくれてありがとう」
「......あ」
やばい、買うの忘れた。と母の言葉に慌てたが、俺の手にはしっかりとスーパーの袋が握られていた。
中を確認すると、買い忘れたものはないようだ。
ショックを受けて、無意識でも買うものを買って出ていた自分。
習慣できちんと買えたことに少し笑ってしまった。
冷蔵庫に物をしまって、俺はリビングに戻る。
コタツに入って、ケイタイを取り出して眺めた。
メールも、少しずつ減ってきた気がする。
嫌われたんだろうか。
うっかり深く考えそうになってしまって、俺はぎゅっと手を握った。
冷たくなった指先。手の平も冷たい。
コタツに入っているのに、あったかくない。
「トモくんどうしたの?」
母が、俺の様子に首を傾げてきた。
なんでもないというように首を横に振ると、こてっとコタツの上に頭を下ろす。
2月に入ってから、あんまり会ってない。
具合が悪いと言っているのに、会いたいと言うのも憚られるが、もしかして会いたくないんじゃないかなと思うと、『会いたい』って、言えない。
「お腹いたいの?具合悪い?」
隣に座った母が俺の頭を撫でてくる。
それにも、頬をテーブルに付けたまま否定を表すように首を振った。
「そう?......お友達と喧嘩でもした?」
ドクン。
その言葉に、思わず鼓動が跳ね上がる。
動揺したままちらりと母を見ると、にっこりと微笑まれた。
「トモくんだめよ。言いたいことはちゃんと言わなくちゃ。今、内側に溜め込んでるでしょう」
ぽんぽんと軽くテンポを付けて撫でられた。
「人と関わるのが苦手なのはわかるけど、ぶつかってみないとわからないこともあるものよ」
お兄ちゃんみたいに、なんでもぶつかって挑戦しすぎるのは困り者だけどね、と笑って母はみかんを食べる。
「......」
「あら、嫌?でも納得いってないんでしょ?トモくんの頑固なところ、ほんとにお父さんに似たのねえ」
笑われて、俺は首を逆側に向ける。
視線を逸らしたことで、更に笑われた。
「大事な友達なんでしょ。なら、喧嘩したままにしないで、しっかり言いたいこと言って、仲直りしてきなさい」
それだけ言うと、母の興味はテレビに映ったようだった。
日曜日にやっている再放送のドラマを見て、犯人を予測している。
登場人物やシナリオより、出演している俳優、女優で犯人を考えるのは邪道だと思う。
1時間ドラマは、母が予測した犯人の逮捕で収束していた。
次の番組が始まるころ。
もそもそと動いて、俺は立ち上がった。
さっき脱いだばかりの上着を羽織る。
マフラーして帽子をかぶって、手袋をする。
ちらっと母に視線を向けた。
「がんばってらっしゃい」
母には、なんでも見通されている。
俺は一度だけ深く頷くと、寒い風が吹く外に出た。
電車に揺られて、和臣の家に向かう。
メールはしなかった。
砕けたくはないけど、ぶち当たってみるのもいいと思った。
結構腹が立っていたのかもしれない。
電車を降りて少し歩いて、通いなれた和臣の部屋へ行く。
いつも家主と一緒に向かっていたから、1人で通うのは緊張する。
マンションの部屋の前に付いたところで、俺はケイタイを取り出した。
手袋を外して、メールを打つ。
『これから、お前んち行くから。家にいる?』
日曜の昼間。もしかしたら外出しているかもしれない。
着いてからそう思った。
もし外出していたら、戻ってくるまで待つつもりだ。
母に触発されただけじゃなく、俺がヤツに逢いたいってこともある。
メールを送付したあと、ガタンと部屋の中から大きな音が聞こえた。
あ、いる。
音を聞いて確認した俺は、ぎゅうっと心臓が締め付けられるようだった。
会える。
嬉しい。
ほっとした俺の手の中で、音楽が鳴る。
すぐにケイタイを開いて受信を確認すると、それは和臣からだった。
『ごめん、今、外に出てるんだ』
え?
じゃあこの音はなんだ?とメールを見て固まった俺の前で、ドアが開いた。
「いッ!」
勢い良く開いたドアは、目の前に立っていた俺の顔にぶち当たる。
「うわ!すいませ......」
外に人がいるとは思ってなかったんだろう。
ドアを押し開いた和臣は、そう言って動きを止めた。
鼻の頭を押さえる俺と、目が、合う。
つうっと鼻から熱いものが伝うのを感じたまま、俺は目を見開いた。
「おま、え......その、顔」
「!」
俺の指摘に、和臣は顔の左側を手の平で押さえる。
今は手で隠されたが、俺はしっかり見たぞ。
紫と、青、それから直りかけに出る黄色のあざ。
腫れはないが、変色した肌。
互いに動きが止まった。