3月-2
-春とはいえ、まだ寒い日が続きますが-
忘れてた。俺、とろいんだ。
それを思い出したのは、職場で何度目かのカミナリを上司に落とされてからのことだった。
「......藤沢くん、ここはいいから、向こう手伝ってあげて」
「すいません」
怒りを飲み込んで、ふーっと深くため息をついた俺の上司の女性。
一度頭を下げて、移動する。
病院に併設された老人介護ホーム。
人手が足りなくて、すぐにでも来て欲しいということだったから、すぐに俺は働き出した。
仕事自体は、本当にたくさんある。
ただ、俺は資格を持ってないから出来ない部分も多い。
そんなわけで、主に受け持つのは雑用だ。
介護される人には、資格がある人しか触れることができない。
俺は資格がないから、一緒にする運動の見本や、食事の片付け、洗濯などを主にしていた。
軽く息を吐いて、俺は向こう、といわれたシーツの換えの手伝いに入る。
「でも藤沢くん、前よりはすこーし手際よくなったね」
怒られた声を聞いていたのか、先輩が声を掛けてくれた。
2人一組で、シーツを換えていく。
先輩と言っても、俺より年下の女の子。
肩までの黒いストレートは、作業の邪魔にならないように二つに結ばれている。
聞いた話によれば、専門学校を卒業してここに就職したらしい。
「もっと、手際がいいといいんだけど」
そうぼやくと、これからだと慰められた。
「しょうがないよ。これからこれから。あと、怒られてるときは、笑ったら駄目だよ」
「......気をつける」
そう答えながらつい笑ってしまって、俺は頬を押さえた。
にこにこしてればいいと思ってたんだけど、確かにTPOは弁えないといけないな。
そう思いながら、俺は無駄にまた笑顔を浮かべていた。
でも、俺は幸せだから。笑ってしまうのは仕方がない。
そう、言い聞かせた。
仕事は、順調な方だと思う。
たまに眠れなくなったりすることもあるけど、翌日はちゃんと起きれてる。
ご飯もきちんと食べてる。消化不良を起こして腹下したりすることはあるけど。
少し体調はよくないかもしれないが、きっとこれからはこれが普通になる。
いつも以上に暖まらない手足には、カイロという味方があるから大丈夫。
人の温もりは、なくてもいい。
職場では可愛い年下の先輩と仲良くなった。
映画に誘ったら、休みが一緒になったらいいよ、と言ってくれた。
デートだデート。やったぞ俺。
相手は女の子だから、外で手を握っても大丈夫。
可愛くて柔らかくて優しい女の子は、俺を結婚相手に考えてくれるだろうか。
なんて、そんなことを1人考えていたら、上司に怒られた。
......仕事中に、考え事するもんじゃねえな。
そう反省したから、残りの時間は何も考えないで仕事に集中した。
会社に通うのも慣れて、怒られる回数も減ってきた、ある日。
「あ」
仕事を終えて、ロッカーで着替えていると、ケイタイが震えた。
開いてみるとメールを受信した表示が出てる。
誰だ?しかも5件も。......あ、不在着信もある。
首を傾げながら開いてみると、見知らぬアドレスと、良く知った名前が表記された題名。
『薫です。今日の5時に、大学の前に来なさい』
『ちょっと、メール見てる?』
『後5分しか待たないわよ』
『私を待たせるなんて、いい度胸ね』
『早く、来い』
俺はそれを見て固まった。
しばらく動きを止めていたあと、電源を落としてしまう。
見なかった。俺は何も、見なかった。
ドキドキと無駄に飛び跳ねる鼓動。
......駄目だ。少しでも、アイツの影を感じると、こんなにも俺は動揺してしまう。
ぎゅっと、ケイタイを胸に抱きこむようにして握る。
ああでも。
直接会えねえし、メールも電話もできやしねえし。
俺、元気だよって言ってもらって......あわよくば、アイツの近状知りてえなあ。
「......」
電源を入れる。
すると、更に1件の不在着信が入っていた。
留守電は入ってない。
着信履歴から電話しようと思ったときに、その電話はかかってきた。
『智昭!』
「はいっ」
第一声で名前を呼ばれて、驚いた俺は思いっきり大声を出していた。
慌てて周囲を確認する。
同じ時間で上がった同僚は、もう既に更衣室にはいなかった。
ほっとすると同時に、更に怒鳴り声がケイタイから聞こえてきて、俺はびびる。
『ちょっと、いつまで待たせる気?!』
ちらっと見た時計は、午後6時10分を指していた。
俺の就業時間は6時までだから、当たり前なんだけ、ど。
「す、すいません!仕事中で......」
口元を手で押さえて謝りつつ、更衣室を出る俺。
『仕事?』
「はい、俺、就職したんで」
小走りでホーム内を走って、背後で走るなと怒られる。
すれ違ったじじばばには、「ともちゃん、走っちゃいかんよ」と笑われた。
「ご、ごめんなさい!」
謝りながらも、足は止められない。
『どうでもいいけど早く来なさい』
「いま、はしって、ます」
『当たり前だろ!』
ぷつっと電話が切れた。
最後、薫さん男言葉になってた。怖すぎる。
裏口から介護ホームを飛び出した俺は、急いで大学に向かった。
久々に会う緊張感とか、もう全部忘れていた。
早く行かないと薫さんに怒られるって、そればかり考えていた。
電車に乗って、大学の最寄り駅で降りて、そこから体力の続く限りダッシュ。
大学の門の前、電灯の明かりの下にいる薫さんを見て、力が抜けた。
髪を短く切ったみたいだ。男の子の格好をしてる。
ユニセックスな雰囲気があって、薫さんには良く似合っていた。
「かおる、っさん。おま、たせっ」
よれよれしながらたどり着いて、膝に手を付いて肩で息をする。
軽く息を整えてから、俺は顔を上げてにっこりと笑みを浮かべた。
と、目の前が暗くなる。
「なに別れてんだよッ!」
バキって、思い切りバキって殴られて、俺はあっさり意識を失った。
......酷い。
ひそひそとした話し声が、俺の意識を引き戻す。
だけど起きたとき、自分がどこにいるかわからなかった。
暗い室内。......室内?なんか、狭いぞ。
よくよく目を凝らせば、車の後部座席に俺は寝かされているのがわかった。
首を動かすと、ずるっと顔に乗っていた濡れたハンカチが落ちる。
ああ、俺殴られたんだっけ?
ずきんとした頬の痛みを感じて、俺は思い出した。
「あ、智昭さん起きましたよ」
上から、低い声が降りてくる。
視線を向ければ、運転席側にいた男が俺を見下ろしていた。
見覚えがある、長身の男。
篠崎。薫さんの恋人だ。
「俺、何か飲み物買ってきます」
篠崎はそう言って車を降りていった。
くらくらする頭を手で押さえながら、俺は上半身を起こす。
すると助手席から誰かが降りて、後部座席に乗ってきた。
誰か、じゃない。薫さんだ。
「僕、謝らないからね」
若干気まずそうに視線を逸らしつつも、低い声できっぱり言い切った
......さすが。
なにが『さすが』だかわからないが、とりあえずそう思ってしまった。
「うん。いいと思う」
にっこり微笑むと、薫さんは眉根を寄せて難しい顔になる。
なに?美人が台無しだよ、薫さん。
「ハンカチありがとう。もう、大丈夫だと思うから」
俺の顔を冷やしていたハンカチを薫さんに差し出しながら、薫さんの変な雰囲気を和ませようと、俺はことさら明るい声を出す。
すると、薫さんは更に不機嫌そうに顔を歪ませた。
「......智昭よね?」
まるで改めて確認するように尋ねられる。
「当たり前なこと、聞くなよ」
俺が俺じゃないなら、俺は誰だ?
呆れて苦笑すると、薫さんはこめかみを指で押さえて、大きなため息をついた。
「なにこれ。こんなのありなの?」
ぽつんと呟かれる。
え?
不思議に思って首を傾げていると、薫さんは悲しげな目を俺に向けてきた。
どうして、そんな目で俺を見るの。
兄とも、両親ともに共通するような眼差し。
「最近、皆そんな顔すんだけど、俺なんか変?」
「......気持ち悪い」
問いかけると、即答された。
......。
はっきり言い切られた言葉に、俺は少しショックを受ける。
俺の笑顔って、気持ち悪いのか......。
落ち込みかけるが、こんなことで暗くなってられない。
「別に、普通だよ俺」
慣れた笑顔を浮かべると、胸倉を捕まれた。
苛々と舌うちもされる。
「普通じゃないわよ!......なんでそんなお喋りなのよ!」
急に激昂し出した薫さんがわからない。
このぐらい、普通の人は話すだろ?
「最近は、普通に話すよ」
「......気持ち悪い」
に、2回も言われると、じわじわと来る。
苦笑を浮かべると、バシッと頬を叩かれた。
痛い。
「和臣と別れたから?」
真顔の薫さんに単刀直入に言われて、俺はぴくんと肩を震わせる。
まだ、名前を聞くだけでも、びくついてしまう。
でもそれじゃ、駄目だ。
「それ、だけじゃない、よ。別に」
強がりを口にするが、隣に座る薫さんが見れない。
口元だけ笑みを浮かべたまま、俺は足元に視線を落とす。
すると、ぐいっと顔を両手で捕まれた。
無理やりに顔を向けられる。
「ちゃんと答えろよ。お前がそんな気持ち悪い顔をするのは、和臣のせいか」
低い声でそう問われた。
なんで、聞くの。......俺に。
俺は、頑張ってるだけなのに。
「......そう何度も、人のこと気持ち悪いって、言うんじゃねえよ」
やばい。口が悪くなった。
人と話すときは、気をつけるようにしてんのに。
視線だけせめてあさっての方向に向けていると、こつんと額を当てられる。
間近で綺麗な瞳で、見つめられた。