3月-3
「和臣のこと、僕が、貰っていいの?」
俺は思わず笑った。
薫さんには、もう和臣以上の人が側にいる。
その人から離れることはないはずだ。......俺とは違って。
「篠崎はどうすんだよ」
大事な彼氏だろ?嘘でもそんなこと言ったら駄目だよ。
笑ったまま尋ねると、薫さんはこともなげに答えた。
「和臣が手に入るなら別れる」
きっぱり言い切った薫さんに、俺の笑顔は固まった。
別れ......え?
脳が、薫さんの言葉を処理できない。
目を見開く俺に、薫さんは声なく艶やかな笑みを浮かべる。
「今なら、和臣すっごく落ち込んでるしね。慰めたもん勝ちでしょ」
ふふんと形のいい唇を歪めて、俺を挑発する薫さん。
......そうだ。これは挑発だとわかってる。
薫さんは篠崎と相思相愛で、もうアイツのことは、いい友達のはず、だ。
それがわかっていても俺の心はざわついた。
間近で自信のある顔を見たくなくて、手を外そうとする。
けど薫さんの手は外れない。......俺より力が強いんだ。
「いいんだ?僕が手を繋いでも、ぎゅーってしてても」
俺が嫌がるのをわかっていて、薫さんはわざと囁いてくる。
「僕が和臣とキスしたりセックスしても」
「......」
嫌だ。
でも、今更それを俺が言えるのか。
もう、和臣は、俺の側にいないのに。
笑う余裕なんて、もうどこにもなくて、俺は薫さんを見つめたまま小さく首を横に振った。
目頭が、熱い。
「初めっから、そういう顔すればいいんだよ。......僕が、隆介と別れるはずないだろ」
とうとう耐え切れなくて俺がぎゅっと目を閉じると、薫さんは俺を強く抱きしめてきた。
人の温もりに、うっかり、涙腺が緩みそうになる。
「さあ頼りになるお姉さんに、洗いざらい話しちゃいなさい」
頼もしくて優しい声だった。
でも一つだけ、譲れない訂正箇所があるぞ。
「俺、のが、年上......」
「黙れ恋愛初心者」
低い声とともに、長い指でぎゅっと鼻を摘まれた。
それから俺は、別れのきっかけと、その経緯をすべて余すことなく吐かされた。
説明の途中、何度も止まりかける俺の言葉を、薫さんは急かすこともなくゆっくり待ってくれた。
おかげで、どうやらみっともない真似を晒さずに済んだ。
思い出して泣くなんて、恥ずかしすぎる。
「家族は、大きな壁ね」
聞き終わった薫さんは、そう呟いた。
それは、俺もわかってる。和臣も、わかってるからきっと俺を振ったんだ。
薫さんは、全部言った俺をえらいと褒めた。
だが、それで心が晴れるまでには至らない。
俺は薫さんを見上げて笑った。
「もういいんだ。俺、就職して女の子と結婚するから。あのね、職場に、とってもいい子がい」
「馬鹿かお前。和臣に言われたからって、そんなあっさり結婚するの?」
俺の大事な将来プランは、その一言でばっさりと切り捨てられた。
腕を組んだ薫さんに、ふんと鼻を鳴らされる。
心底馬鹿にされた眼差しで見つめられて、俺は気まずくなって視線を逸らした。
......そう言えば、篠崎はどこまで飲み物を買いに行ったんだ。
いくらなんでも遅すぎるだろう。
なんとなく現実逃避にそんなことを考える。
気を使ってもらっているのだろうなとは、なんとなくわかった。
「でもあの和臣が、そんなあっさり諦めるなんて、智昭のお兄さんは何をどう言ったのかしら」
首を捻る薫さん。付き合いの長い薫さんがわからなくて、俺がわかるはずがない。
「知らねえ。......その程度なんだろう、俺のことは」
うっかり自虐的に呟いてしまい、俺は唇を噛み締める。
......こんなことは言いたくない。
アイツには、アイツの理由があるはずだ。
俺の呟きを聞き咎めたのか、薫さんが笑い出した。
「それはないわよ。あいつ、お前が好きだもの。すごくね」
「......」
現状を考えると、薫さんの言葉を素直に喜べない。
本当に、まだアイツは......俺のことが好きなのか。
薫さんは俯いている俺を見ると、頭を撫でてくる。
「智昭は、本当に和臣が好きになったのね」
視線を上げると、目を細めて見つめられた。
相思相愛なのが嬉しいと語る瞳に、俺は口を開く。
「好きだよ。たぶん、一生で最後の恋だ」
緩やかに生きていた俺を、和臣は原色溢れる世界に引き出した。
あのインパクトは、もう二度と他の人には与えられないだろう。
刷り込みのように俺の中に入り込んだアイツの姿を、俺はもう消すことはできない。
「そっか。じゃあ、何があってもお前は大丈夫だね」
にこやかに微笑んだ薫さん。
......薫さん、何か知ってる?
俺の問いかける視線を受けた薫さんは、首を横に振った。
「これは、私が言っていいことじゃないわ」
なに、それ。それなら気になること言うんじゃねえよ。
むすっとした俺は、口をへの字に曲げて、ぷいっと視線を逸らす。
すると、不機嫌になった俺に対し、薫さんは堪らないといった調子で抱きついてきた。
「ッあーもう!智昭はこうでないとね!」
ふわりと、柔らかい香りに包まれる。
「離せ」
「あん、もうちょっと!」
嫌がる仕草を面白がる薫さんは、俺をいじり倒した。
頬や唇を細い指で引っ張られたり、どこからか取り出した大きなリボン型のヘアピンで、髪を七三分けに止められる。
薫さんが満足する頃には、俺はもうすっかり不貞腐れていた。
ヘアピンを頭につけたまま座席の隅っこに寄った俺が、不機嫌オーラをかもし出していると薫さんは携帯を取り出す。
「あ、怜次?今どこにいるの」
いきなり怜次くんに、電話をかけ出した。
あー、怜次くんにも会ってねえなあ......志穂ちゃんも元気かな。
薫さんの声を右から左に流しつつ、俺は車内から外の街灯を眺める。
普通人を目指したつもりが、薫さんには気持ち悪いと言われた。
いつもがいいって言われた。......母さんとか、父さんとかも、そう思ったのかな。
昭宏が変だったのも、俺が変だったから、か。
「あ、うん。それも一緒に。絶対よ。逃がしたら怒るから。怜次の頭にバリカンでハゲって書くからね」
......。
凄い脅し文句を聞いた俺は、窓の外から薫さんに視線を戻した。
脅すだけ脅した薫さんは、電話を終えて俺に向き直った。
「来るって。近くにいてよかったわ」
「怜次くん?」
俺が尋ねると、薫さんは首を横に振る。
「和臣」
「......え!?」
急に告げられた名前に、俺は飛び跳ねんばかりに驚いた。
え、だって、薫さん怜次くんに電話してたんじゃ......。
ぱくぱくと声なく口を動かす俺に、薫さんは肩を揺らして笑う。
「怜次と一緒だったんだって。......本人と腹を割って話せばいいじゃない。さっきの話だと一方的だったんだんでしょ。言いたいこと、言わなくちゃ」
明るく告げられた。
来る。......和臣、が。
酷いぐらいに暴れる俺の心臓。
ぎゅっと胸元を手で押さえても、自分がどれだけ動揺しているかわかるだけで、少しも落ち着きそうにない。
また会える。
嬉しくて、勝手に口元に笑みが浮かんだ。
えっと、俺変な格好してないよな。
身づくろいをしようと窓に自分の姿を映すと、まだ頭にヘアピンを付けたままだと気付く。
これじゃ笑われる、と外そうとしたその時。
「はいもしもし?......はああああ?!」
薫さんの出した大声に、何事かと俺は振り返った。
ケイタイ電話を手にしたまま、薫さんは思いっきり顔をしかめている。
「どうしたの?」
俺が尋ねると、乾いた笑みを浮かべた。
「え、いや、ちょっとね」
はっとした薫さんは、電話を俺から遠ざけようとした。
でも。
『わり!絶対捕まえてそっち連れてくから!!』
怒鳴るような怜次くんの声は、ケイタイからしっかり聞こえた。
つかまえて......?
言葉の意味を理解して飲み込んだ俺は、視線を薫さんに向ける。
目が合った薫さんの表情から、俺がとてつもなくショックを受けた顔をしているのだと、思った。
「ともあ」
「俺、帰る」
「待ちなさい!」
薫さんの制止を振り切って、俺は車を飛び出した。