そのいち-3

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 掴まれた腕が振り払えれば帰れるのに、それすらできない。
 地上は明るく、そして空は暗い繁華街を通り、寂れた細い小道に入っていく。
「村瀬」
 春樹が呼びかけても振り返らない。
 いつもそうだ。自分を好き勝手に振り回す。
 自分が 嫌がっていることを博也は気付いている筈だ。
 それでも、博也は自分の意思を押し通す。
 春樹は何度目かわからないため息をついて、それ以上呼びかけなかった。
 しばらく歩くと、博也は1つの定食屋の暖簾をくぐった。
 小道に出入り口があるだけあって、目立たない地味な店だ。中も狭い。
 けれど繁盛しているらしく、中は人でぎゅうぎゅうだった。
「チッ」
 博也が大きく舌打ちする。
 自分が何かしたかと戸惑った春樹だったが、「おっちゃん席空いたら声掛けて、2人」と無骨な態度の店員に告げて、博也は春樹の腕を引いたまま建物の外に出た。
 途端に乱暴に腕を払われる。
 春樹はそっと博也の様子を伺ったが、博也はそのまま、コンクリートの壁に寄りかかり携帯を取り出して弄り始めた。
 ぼんやりと立ち尽くす春樹には見向きもしない。
 これは帰っていいのか、いいのかも、いいんだろうな。と徐々に春樹の脳に『帰宅』の二文字が浮かんできた。
「あの、むら」
「にいちゃん開いたぞ!」
 がらりと開いたドアから客が出てきた。それと同時に、低い声。
「おら、いくぞ」
 がんっと春樹の足を蹴りつけた博也はさっさと店に入ってしまう。
 それほど高そうな店には、正直思えない。きっと大衆食堂的な金額のものを出すのだろう。
 しかし。
 ここで小額とはいえ金を使いたくはない。今でさえ月末までの生活が難しいのだ。バイトも、......もう望みは少ないだろう。
「おっせえよ春樹!」
 ずっと建物の外で考えていると、中から博也の苛立った声が聞こえた。
 慌てて入り、博也を探す春樹。
 どうして俺は、村瀬の言うこと聞いてんだろう。
 背も体躯も、どちらかといえば自分の方が良い。
 なのに、言い返せもせずすごすごと言う事を聞いてしまう現状。
 ......まったく、条件反射は恐ろしい。と春樹は博也を見つけ、睨みつけられながら椅子に座って首をすくめた。
 向かい合わせに飯を食うなど、食欲のなくすことはしたくない。
 ああそれよりも、と春樹はゆっくりと口を開いた。
「村瀬」
「なに」
「俺、飲み物とかでいいから。あと、悪いけど自分の分は自分で出してくれ」
「は?てめえバカじゃねえの。定食屋来て飲み物だけだぁ?つーか、もう頼んだし」
 畳み掛けられるように言われて、春樹もさすがに眉間に皺を寄せる。
「金ないんだ」
 カラオケに行く際も口にした台詞を告げると、博也は大げさに額を押さえてわざとらしいため息をついた。
 人をバカにした、嫌な態度だ。
 テーブルの下で拳を握り、春樹は向けられる悪意に耐える。
「辻村春樹くん。うちは何してる家だか知ってるよな?もしかして忘れたのかよ。お前の脳には何が詰まってんだ」
「ッ......やめろ」
 身を乗り出してつんつんと額を突かれて、春樹はその手を払った。
「んじゃ、言え」
 横柄に腕を組み、さげすむような眼差しを向けられる。
 睨み返してやろうかと思ったが、それをして特は何もない。
 春樹はすっと視線を下に落とすと、そこでまた、博也が舌打ちをした。
「病院、だろう。デカイ、総合病院」
「なんだ覚えてんじゃん。よかったなボケが始まってねえで」
 博也は一頻り春樹をバカにしたように笑うと、肩をすくめた。
「で、貧乏奨学生のお前にたかる程苦労してねえし、余分に使える金がざっくざくあるの俺」
「......」
「しょうがねえから、恵んでやるよ。俺にしたら、お前はペットと同じもんだしな」
 そう言って、博也はさも楽しいことのように笑った。
 誰が。
 誰が頼んだのか。そんなこと。
 ぎゅっと握った拳。手の平に爪が食い込む。
 怒鳴って殴って、金輪際顔を見せるなと言いたかった。
 だが、それを言うことの出来ない事情が、春樹にはあった。
 視線をそらして、春樹は怒りを必死に耐える。
 なので博也がふっと目を細めて、自分を見つめていることに気付かなかった。
 春樹にとって居心地の悪い時間が過ぎる。
「お待ち」
 がたんと音を立ててトレイに乗った定食が出される。
 と、同時に博也が動いた。
「食えよ」
 ぱちんと割り箸を割って、博也はさっさと定食を食べ始める。
 湯気の立つ夕食は魅力的なものであったが、施されたものを口にしたくないという思いが、春樹の中に渦巻いていた。
 じっと料理を見つめるだけで、身体が動かない。
 すると、博也が身を乗り出した。
 無言で春樹の前に置かれた定食の、メインである焼肉を一口分だけ箸で摘む。
 何をするつもりだと視線を上げると、黒い瞳と視線がかち合った。
 そこに感情の色が見えない。
 昔からの条件反射と言うべき『怯え』が、先ほどとは違う理由で春樹の動きを止めた。
 この目をした時の博也には、逆らわない方がいい。
 そういった教訓が、春樹の身体には染み入っていた。
「口、開けろ」
 低く囁かれて、春樹は僅かに震える唇がゆっくりと開く。
 小さく開いた口に、やや無理やり肉が押し込まれた。
「ったくよお、自分でちゃんと食えよなあ」
 博也はそうぼやきながら、タレで汚れた春樹の下唇を親指で拭う。
 ガタ、と椅子に腰を下ろしながら、博也は汚れたその指を舌で舐め上げる。
 春樹をじっと、見つめながら。
 ゾク、とした悪寒が背中を駆け上がり、春樹はぎこちなく箸を掴む。
 どんぶりを手にすると、そこに盛られたご飯に手を付ける。
 春樹は周囲が無性に気になったが、周囲の人は誰も博也の行動を気に留めていないようだった。
 せわしく動く店員。アルコールの入り、上機嫌で会話する客ばかり。
「そうそう。ちゃんと食わねえとな。俺ら成長期だし」
 ようやく食べ始めた春樹に満足したように、博也は軽く笑みを浮かべた。
 博也が見ている前で、春樹は無表情に料理を平らげていく。
 早く食べ終わって、帰りたい。そんな気持ちに春樹の心は締められていた。


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