そのいち-4

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 春樹はろくに味わうことも出来ずに食べ終わり、店を出る。
 夕食代は最初に告げたとおり、博也が支払った。
「あー食った食った」
 同じくさっさと食べ終わった博也は、春樹の少し前を歩き、上機嫌に鼻歌を歌っていた。
 向かう先は、ざわめきの多い繁華街だ。それを見て春樹は足を止める。
「村瀬」
「あん?」
「俺帰る」
 低く硬い声で告げると、博也も足を止めて振り返った。
 にやっと人を食ったような笑顔を浮かべている。
「ええ?春樹どうせ家帰ったって誰もいないじゃん。もうちっと遊んでいこうぜ」
「......でも帰るから、俺」
 家に誰もいなかろうと、早くこの場を離れたかった。
 この場を離れたいというより、博也から離れたい。
 放課後からずっと引きずられてばかりの春樹は、そうしっかりと心を決めて博也に意思を告げる。
 すると、ふらりと博也が近づいてきた。
 そしてくいっと横に身体を曲げて、上目遣いに春樹を見上げる。
「じゃあ、お願いしてみ。帰りたいんですって」
 笑みを浮かべたままの博也は、ぬけぬけと言い切る。
 相変わらず人を食った言い方をする博也に、春樹は怒気を孕んだ眼差しを向けた。
「春樹くん顔こわーい」
「......」
 けらけら笑う博也に、春樹は無言で背を向ける。
「え、マジ帰んの?」
 早足で歩く春樹の背後から、少し焦ったような博也の声がする。
 だが、春樹は振り返るつもりも、足を止めるつもりも毛頭なかった。
「なんで急に不機嫌になんだよお前さー、カラオケ行って飯食っただけじゃん。まだ全然遊び足りねえって」
 博也はぶつぶつ言いながら、それでも春樹の後をついていく。
 カラオケも夕食も、春樹からしてみれば無理やりに付き合わされたことだ。
 それに。
 どうして自分の後をついてくる。
 さっさと1人で遊びに行けばいいのに、と春樹は歩きながら考えた。
 自分と違って、呼び出せば集まる相手はいくらでもいるだろう。
 家の方向に向かいつつも、春樹の意識は背後から愚痴りながらついてくる博也に、向かいっぱなしだった。
 人気の少ないビル街に差し掛かり、春樹はいつの間にか声が聞こえないことに気付く。
 自分に愛想をつかしてどこか行ったのか。
 確認しようと足の進みを遅くする。

 だが、振り返ってもしまだいたら?
 あの馬鹿にした笑みを向けられたら?

 今度こそ殴ってしまうかもしれない。でも、いないのにムキになっているのは少し恥ずかしい。
 振り向こう、振り向こうと思いながら歩いていた春樹は、前を向きつつも目の前に迫っていたものに気付かなかった。
「っぶね!」
 声と同時に腕を引っ張られ、春樹は咄嗟にその手を払っていた。
「!」
 やっぱり付いて来ていたのかと思う間もなく、手を払った反動で目の前に迫っていたコンクリートの柱にガンと鼻先と額をぶつける。
 ぶつかった箇所を押さえながら改めて見ると、そこには電柱が立っていた。
 夜で暗いが、それでも電灯が照らされている電柱。普通に歩いていればぶつかることもないはずだ。
「あーあ......」
 至極残念そうにため息をつかれて、春樹は羞恥に赤くなった。
 博也は、注意散漫な自分が電柱にぶつからないように止めようとしてくれたにもかかわらず、その手を払った結果、自ら電柱にぶつかった。
 そのことに気付いて、居た堪れない気持ちになる。
「何やってんだお前。馬鹿だなー」
 心底呆れたように言われて、痛さで反射的にじわっと滲みそうになる涙を慌てて瞬きで散らす。
 コイツの前で、泣いてたまるか。絶対に。
 春樹がきゅっと唇を噛み締めていると、博也が手を伸ばしてきた。
「だっせ」
「......」
 赤くなった鼻をぴんと弾かれて、痛みに更なる痛みを上乗せされる。
 博也にしてみれば、なんでもない接触のつもりなのだろう。
 だが春樹にとっては。
「わっ」
 たまりにたまっていたものが、弾けた。
 胸倉を掴んで、明かりの消えたビルの壁に押し付ける。
 博也が驚いたような表情で、春樹を見上げた。
 平静を装いながら、春樹の心臓はバクバクしていた。
「村瀬、お前いい加減にしろ。俺が嫌がってるの、わかってるだろう」
 自分の意見を口に出すことがあまり上手くない春樹の、精一杯の訴え。
 が。
「声、裏返ったけど」
 はっと鼻で笑った博也は、そう春樹の動揺を突いた。
 ぐっと奥歯を噛み締めた春樹は、意思が揺らがぬようにじろりと睨みつける。
「これさーぁ、他の人が見たら春樹が悪者になるよ?あきらかにお前の方が背、でかいし」
 首元という急所に手を当てられているにもかかわらず、博也は余裕だ。
 その余裕に、春樹の方が焦ってきた。
「人に見られようが、別に......」
「ホント?俺叫ぶよ?助けてって。......俺の声のでかさ、春樹もよく知ってるよな」
 にやりと笑われて、春樹の脳が一時停止した。
 思い出すのはまだ中学生の頃のこと。
 朝の登校時に離れた場所から思い切り「ズボンのチャック下がってんぞ」と指摘された。
 周囲の視線と密やかな笑い声に、涙ぐみかけたことまで思い出す。
「はーるき」
 トリップしていた春樹は、博也に優しく名前を呼ばれて、はっとした。
 春樹の意識が『今』に戻ってきた事を確認すると、博也は指先でくいくいと春樹のことを呼ぶ仕草をする。
「顔寄せろ」
「なん」
「いいから、早くしろよ」
 急に苛立ったような声を出されて、身体は無意識に従っていた。
 間近に顔を寄せると、口の端のあたりに博也の息が掛かる。
「口開けて、舌出せ」
 付けられた注文に戸惑うと、どかっと足を蹴られた。
 キレて博也に決別申し出ようと思っていた春樹は、何が何だかわからない。
 手は相変わらず胸倉を掴んだままで、他人から見ればやはり春樹が手を出しかけているように見えるだろう体位。
 だが、すっかり身体のコントロールは博也に握られていた。
 言われるままに、口を開き、恐る恐る舌を出す。
「閉じるなよ」
 そうドスの効いた声で囁かれたと思った瞬間。

 差し出した舌先に、噛み付かれた。


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