インナモラートの微熱5度04
翌日は早く学校に行き、実習室で滝沢を手伝った。二人で三十分ずつ交替して穴を開けていく。
滝沢が手伝わせてくれていることを、渉は清水に言わなかった。
滝沢も誰にも言わなかったようで、二人でひっそりと作業をする。
一人で集中したいと滝沢が宣言していたため、クラスメイトが来ることもなかったのだ。
昼はいつも清水と取っていたのだが、この日は清水が生徒会に徴集されたため、一人だった。
弁当を手にして教室を出る。
息の詰まるクラスで食べるよりは、実習室で滝沢を手伝おうと思ったのだ。
「渉」
だるそうにゆったり歩く渉に声がかかる。
振り返ると立っていたのは平祐だった。
どこか苦々しい表情で近づいてくる。
「だらしねえかっこしてんじゃねえよ。風邪引くぞ」
手を伸ばした平祐が渉の胸元のボタンを止めていく。
一番まできっちりとつけられて息苦しい。
「んだよ、こんなんいつもだろ」
唇を尖らせた渉は、閉じられたばかりのボタンを外してしまう。
それを見た平祐は小さく舌打ちすると、渉の腕を引いて歩き出した。
「え、ちょっ、おい!」
驚いて身じろぎしても平祐は放してくれず、人気のない職員用の駐車場まで引っ張られてしまう。
裏が薄い上履きのままで外に出たため、ごつごつとしたコンクリートの違和感を感じた。
「なんだよ」
平祐がこうまでするのは珍しい。
訝しがる視線を向けると、平祐は少しだけ視線を逸らした。
「今、クラスで孤立してんだろお前」
「......まあ、うん」
好きで一人でいるのとみんなに避けられているのは、同じ一人でも内容が全然違う。
そのことを仲のよい平祐に指摘されると落ち着かない。
「それで、その......キスマーク。お前がそうなってから、つけられてるって皆知ってるぞ」
渉はつけられたキスマークを隠すことはしなかった。
いつもとおなじように胸元の開いたシャツを着て、カーディガンを羽織っているのだから、より目立つだろう。
「それで?」
「............」
「どうしたんだよ平祐」
渉が更に尋ねても平祐は押し黙ったままだ。
これも珍しい。
平祐は忠告も相談も、よどみなく口に出す性質だ。
よほど言いにくいことらしいと黙って見やる。
「......お前、自分の噂知ってるか?」
しばらく経ってから、平祐は低い声でぼそっと呟いた。
「知らね」
首をゆっくりと横に振る。
クラスメイトとは、会話もない。
渉に何か用事があっても、クラスメイトは全て清水を経由させていた。
そんな渉が自分の噂を聞く機会などない。
渉の答えに平祐は深く頷いた。それからため息を零す。
「噂じゃお前、何人かに強姦されたことになってるぞ」
「はあ?」
渉はあんぐりと口を開けた。
確かにクラスメイトに避けられてから清水とそういうことになり、情事の跡が残されるようになったが、どうして話がそこまで飛躍するかわからなかった。
「今も現在進行中で、不良のオモチャになってるって。悪いヤツらと付き合いがあるから、帰るのも早いんだとか。誰かが殴られて犯人がわかんねえと、お前がやったんじゃねえかとか、そんな話ばっかりだ」
突拍子もないほら話を聞いている気分だった。だが平祐がそんな嘘をつくはずもない。
渉は肩を竦めて苦笑した。
「俺が清水と付き合ってんの、お前知ってるだろ」
「......ああ」
「これはアイツがつけてんの。変な相手と付き合いもねーし、喧嘩もしてない。......そんなデマに騙されんなよ。らしくねえな」
噂は気味が悪いが、すでに一番悪い状態に陥っている渉はどうしようもない。
気にしなくていいと、思いつめた表情の平祐の肩をぽんと叩く。
するとその手を強く掴まれた。
「俺が言いたいのは......! そんなにダチがいない俺だって知ってる噂を、アイツが知らねえはずがないってことなんだよ!」
「......清水も知ってんじゃねえのか?」
「だったら訂正するだろう! 付き合ってることは言えなくても、なんでそんな噂を流しっぱなしにしてんだよッ!!」
それを俺に言われても。
そんな思いが表情に出てたのだろう、平祐は苦しそうに顔を歪ませて渉を抱き寄せた。
痛いぐらいに強く抱き締められて、息が止まる。
「渉が孤立することになったことだって、おかしいじゃねえか。お前、夜出れねえのに学校侵入してなんか壊したって......確証はないのに、お前がしたって決め付けられてる」
怒りを必死に堪えようとしているのか、平祐は震える声を低く抑えていた。
「それ、は......しかたないんだ。俺の、態度が悪くて......清水は、俺のこと信じるって言ってくれたし、お前だって俺のこと信じてくれてんだろ?それならそれで俺は」
「いいなんて言うな。そんな状況に慣れるんじゃねえよ。この、馬鹿!」
「......」
なんだろう、怒られているのに嬉しい。
笑いそうになりながら、渉は平祐の背中を優しく叩いた。
「ありがとな、平祐。でも俺はマジで大丈夫だから」
「渉......」
まだ何か言いたそうな顔をしている平祐の手をゆっくりと外す。
「ほら、俺なんかと抱き合ってたら、お前まで変な目で見られるぜ?」
「んなの俺は別にかまわねえよ」
ノーマルというか、ボクシング一本の男は言うことも男前だ。
だがそれはそれで少し困る。
「駄目だっつうの。あと俺が清水にばれて怒られたくない。アイツ、お前のこと話すと機嫌悪くなんだよ」
ぺちっと軽く平祐の頬を叩いてその身体を押しやった。
「そろそろ俺戻るわ。清水も戻ってるかもしれねえし」
「なあ、ホントにあの男が好きなのか?側にいるならわかんだろ。あいつ、どっか裏あるぞ」
裏。
観察力が鋭い平祐の言うことなら、きっとそれは本当のことだろう。
平祐は自分には嘘をつかない。
それでも渉はへらりと笑みを浮かべた。
僅かに見開いた平祐が、渉のその表情に目を奪われる。
「俺、アイツ愛しちゃってんだよなー残念なことに」
だから、いいのだ。
「じゃ、またな」
渉はくるりと背を向けると、自分の教室に足を向ける。
早足で立ち去る渉に、残された平祐は強く拳を握った。
「俺だって......」
無意識に零れ落ちた言葉は、そのまま吹き抜けた風に紛れて消えていった。