シーバス・リーガル

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 古くてかび臭い屋敷をそっと抜け出した。
 砂を巻き上げる風を遮るための厚手のコートと、重い厚底ブーツ、それから革の手袋。腰には反動の強いリボルバー。俺が外に出るときはいつもこの格好だ。
 空を見上げると、重く垂れ込む雲の向こう側に白い太陽が見える。
 光は殆ど通さないが、それでも直に見上げると目が痛かった。
 つばのあるハットを深くかぶり、日に直接当たらないような格好で俺は廃墟を離れていく。
 この屋敷の主は、今頃深い眠りについていることだろう。動いている間は殆ど無敵に近いが、一度寝ると大抵のことでは起きない。寝ているだけで無敵なのは変わりがないから、俺は大抵なんのちょっかいも出さずに逃げ出す。
 気配を殺してあいつのテリトリーから出ると、俺はほっと息を吐いた。

 俺はあいつの根城が大嫌いだった。
 乾燥した風を通す庭の木々の枝には葉が付いてないし、草花は何もしないでドライフラワーになっている。
 なによりどこにも生き物の匂いがない。
 小動物も寄り付かないし、俺の大好きなおねーちゃんは影も形もない。
 よって、俺はここにいる理由はない。
 できればさっさとこんなところは出て行きたいところだが、悪趣味なあいつは俺を気に入って自分の側に留め置こうとする。
 顔と身体が好みらしい。『仲間』になったときにそう聞いた。
 俺の前にはべらせていた男は、確かに俺と似たような格好だった。俺があいつの側にいるようになってからは一度も姿を見せなくなった。
 最後に会ったとき、俺の腹に銀の杭をぶっ刺していったから、俺のことが気に食わなかったんだろう。
 ただ、俺を気に入ったあいつがそれに腹を立てたせいで、男は日の光に晒されて灰になって消えた。
 そうして俺を助けたあいつだけど、次に気に入った者がいればそいつを側に置くに決まっている。ありうる。
 元々俺は硬い男なんて興味はないし、そうなる前に離れておけば、うっかり灰にされる心配もない。
「さてと......今度はどこに行くかな」
 俺は川や海は越えられない。けれど、この地は広い。行く先はたくさんある。
 寂れた地を離れるべく、俺は足を進めた。



 夜も明るい光が途絶えることのない街。人口的な明かりは俺に対して痛みを与えないから好きだ。
 あいつの屋敷を離れて2ヵ月。俺はギャンブルと観光で生きている街に溶け込んでいた。
 夜に出歩く人間は多いし、酒もゲームもある。柔らかくてふわふわしている女もいる。
 今日はどうしようか。
 光溢れる路地を古いアパートメントから見下ろして俺はにやりと笑った。
 この街に来てすぐに、悪徳美術商から巻き上げた金はまだたんまりある。遊びに制限はない。
 胸元が大きく開いた黒いシャツに金のネックレス。それからストライプの入ったスーツを着込み、俺はハットをかぶって上機嫌で部屋を出た。
 上質の革靴がカツカツと床を踏み鳴らす。
 アパートメントのドアを開けると、赤毛の髪が目の前を過ぎった。
「ベル!」
 俺が声を張り上げると、その少女はびくっと肩を揺らして振り返った。
 手にしていた、花の入ったかごを自分の背に隠して俺に対して愛想笑いを浮かべる。
 そばかすの散った頬。ふんわりとした体の線を隠すワンピースお世辞にも美人とはいえない小娘だ。
「よお。花売りベル」
「お、おはようジョニー」
 俺が歩みよると、ベルは怯んだようにあとずさった。
 下からじいっと見上げるベルは、そわそわと落ち着かない。
 俺は意地悪いと自覚のある笑顔を浮かべてやった。
「精が出るな。これからミュージカルのトップスターに会いに行くんだが、お前の花を売ってくれないか」
「残念だけど、アンタに売れる花なんてないよ!」
 言うが早いか、俺から逃れるためにベルは走り出した。道を行き交う人を押しのけて見えなくなる少女。
「やれやれ......」
 俺は肩を竦めると、地面を強く蹴った。
 夜の空に飛び上がった俺を見て驚いた声を上げるヒゲの紳士。初めて見たのか泡を吹かんばかりのババア。
 通りでホットドックを売っているトマーチンは、俺の行動なんて見慣れているせいか見向きもせずに売り込みの声を張り上げている。
 3階建てのアパートメントの屋上に一息に飛び上がった俺は、ベルの気配を追っていくつかのビルを飛び越えた。
 すばしっこい小娘は背後ばかり気にしていたが、俺が付いて来ていないことに気づいて足を止める。
 屋上から俺が見下ろしていることには気づきもしない。
 どのタイミングで飛び降りて驚かせようかと眺めていると、ベルに近づく男がいた。
 年のころは30代の男で、酔っ払っているのか千鳥足だ。そして人間には感じられないだろう、薄い血の匂いを纏っていた。
 男がベルに話しかけると、ベルは花を差し出す。そしてその花を受け取った男はコインを差し出した。コインを受け取った男は花を投げ捨てて、ベルの手首を掴んで人気のない路地に消えていく。
 それを見た俺はビルから飛び降りてその路地の入り口に降り立った。
 歩みを進めると、ベルにのしかかった男の汚ねえ尻が見えた。
「おっさん。邪魔だよ」
「なっ!!」
 げしっと俺が長い足で男の尻に蹴りを上げると、その男は文字通り飛び上がった。
「なんだてめえ!」
「ジョニー?!」
「ジョニーだと?はっ、噂の不死身の野郎か。どうせ偽もんだろーが、邪魔すんじゃねえよ刺すぞ!」
 お楽しみを邪魔された男は、酒臭い息で喚いて俺を脅すようにナイフを取り出す。
 それを見たベルがひっと短い悲鳴を上げた。
 男の出したナイフの刃が赤黒く染まっていたからだ。
「おいベル。俺には売る花がなくて、こんなおっさんに売れる花があるってどういう了見だ?残りの花全部寄越せよな」
 俺の目的はベルの花だ。男には用がない。男の脇を通り過ぎて、壁に寄りかかってしゃがみ込んでいるベルに手を伸ばすと、トスと軽く物が当たる音がした。
「にーちゃん、順番は守ろうじゃねえか、ああ?」
 にやにや笑った男が俺の側にいる。不快な顔だ。
 勝ち誇ったような男の手には、もうナイフがなかった。視線を下ろすと、俺のわき腹に生えたナイフの柄が見える。
 この俺を刺しやがった。
「いやあああああ!!」
 ベルが悲鳴を上げる。俺のわき腹に刺さったナイフを見たらしい。
 俺はわざとらしく大きく息を吐くと、そのちっぽけなナイフを引き抜いた。
 折角決めたスーツが血で台無しだ。
「なんてことしてくれんだよ。スーツ汚れたじゃねえか」
 不機嫌そうに顔をしかめた俺が痛みを訴えないことに、男の顔色が変わった。
「ま、まさか、本当にジョニー・ウォーカー......?」
「責任とってもらおうじゃねえか」
 にやあっと笑った俺は、闇夜に溶ける黒いコウモリ羽を開き、男の頭を掴んでその場から飛び去った。


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